無心ということ
<鈴木大拙語録>


印度人の哲学的な頭が
シナ人の実践的な頭に消化せられ同化せられて
そうして、今日わたしが使わんとする
無心の意義になった。


この清浄(しょうじょう)とは
ただ綺麗であるとか、大空の雲のない姿で
カラリとして何もないという
ただそれだけを意味するのではなくして
そういう姿でないと
そこへは「もの」が這入ってこないのです。
これは受動性をたとえたのであります。
受動性は、つまり絶対的包摂性と云ってもよいのです。


仏教は一神教でもなし、多神教でもなし
また凡神教でもないのです。
そんなことを離れた意味から本来清浄というのです。
本性は清浄である。
「畢竟浄」である。
そうすると何でも受け入れられる。


空に囚われると、空は空でなくなってしまう。


これは宗教というものは真の一心であって
全く空虚になって六根清浄、本来清浄ということになれば
その清浄性が自然に動く
而してその動くものに従って出れば
安養の浄土が現出する。


時間的に見ることは
空間的に見ることの反対であって
空間的に見ると死んでしまうが
時間的に見るとこれが次から次に
また次にと展開して行く。
向こうーといっても
そこに当てがあるのではなくて
どこまでも
はてしなく行くというという風に見るのを
時間的と自分は云うのである。


今ここにこうしている自分の
居処がすなわちそれなのであったと
そう言ってもいいと自分は思う。


そこには自主、自由というものがなくてはならぬ。


遊戯三昧、すなわち何ら拘束せられないところが自由の働きですが
これがあると創造の世界が出来て行く
自分で創めて造ってゆく世界なのです。


ここに、この机の上に一個の水呑がある
これをこうやれば
儂の手についてあがってくる。
物理学者に云わせれば
この水呑の重さがどの位ある、儂の手の力がどの位ある。
その力がどう加わると、物がどう動く
動く時はどれだけの空間を通って来るとか、何とか
この上にも中々の文句が出るのである。
それはそれでいい。
しかし宗教者はそういうことを言わない。
宗教者は
こうしてあげればあがる、飲めば飲む
それで事はすんでいる。
生理学者はまたこう云うであろう
咽が渇いたから
咽を潤すために水呑を取り上げた。
咽はどうだ、お腹はどうだなど
次から次へと色々な事わけを述べ立てる。
それは物理学者、生理学者、化学者が云うことであって
宗教者の方から云うと
水呑が、ここにこうあると同じ心持ちで
これをこの手に持ち上げて
その内容を飲みほすのである。
そうするとこの水呑も、水もこれを飲む自分も
皆同じ高根の月で動いていると云いたいのです。


応に住する所なくしてその心を生ずべし。
住する所がないというと否定になって
それで済んでしまうが
そうでなくして
その心を生ずと云いまして
やっぱり何かそこにある。


それなら心とは何だ、住するとは何だというような問いも出るが
それは哲学者が説明することにしておいて
吾らはそういうことを問答しないことにします。
言わば、空中にぶらんとしておりながら
やはり聴いたり見たりするーーー
そういうことにしておきます。


嵐が吹く、そうすると樹が倒れる、家が毀れる。
しかしその嵐はこの樹を倒してやろうというのではない
この家を毀してやろうといって吹くのではなくて
嵐は吹くから吹いたのだ。
毀れたものは毀れるので毀れた。
死んだものは死んだということにして
そこに何ら自分の按配がはいっていない。
嵐に殺人の意志はない
倒れた樹木に嵐を恨む心情はない。


人情があるところに即してまた非人情の世界
人情で動かぬ世界がある。
そこを見なければ般若の心非心ということも分らず
無所得ということも
身心脱落ということも分らぬと思うんです。


主観ではいけない、客観的でないとなどと言うが
私はそれは嘘だと思う。
皆な主観の世界なのです。
だから喧嘩をする。
そうではなくて、みんな主観の事実を公平に
中正に見ていると云うならば
何も喧嘩する必要はない
必要どころか
そんな事の起りようがないのである。


”入れ物がない、両手で受ける”
尾崎放哉


仏教はいずれの宗派でも
私はいずれの宗教でも、というのですが
その根本義、根本的経験は無心ということであって
これを智的、分別的に系統づけて
何かと解釈し、意味つけようとするとき
色々に変化して来るのです。
宗教的体験の根本義というものは
無心ということでなければならない。


生死を厭うこともなく恐れることもなく
生死の中に住して
而してその来往に任せ
自然に生死の動くままに動いていると
仏のお命を失うこともなく
従いて生死に囚われることがない。
この時始めて仏の心に入ると言う。
心に入るはすなわち命を全うするのである。


”生地の白地で月日を送れ、さわりや濁るぞ谷川の水。
問うな学ぶな、手出しをするな
これが誠の禅法ぢゃほどに
みぬが仏ぞ知らぬが神ぞ”
白隠和尚


怒る時は雷のように怒鳴り散らすが
喜ぶ時には如何にも春風のようである
所謂る大人は小児の心を失わずで
天真爛漫、赤裸々というようなところがある。


大人は赤子の前に出ては誠に惨めな生活を送っている次第である、と
こう言った哲人もある。
これも尤もなところがあると思われる。


どの宗教にあっても大抵は子供にかえれと教える。
吾らは本来清浄なのである。
人欲というものが加わるほどいけない。


一方では、知識が殖えて、智慧がついて
いろいろのことを考えたり、判断したり、計画したり
またそれぞれの境遇に順応してゆくということになるのであるが
また他の一方を調べて見ると
そういう按配にして得たところのものを
また棄ててしまわなければならぬというような心持が
しょっちゅう吾らにあるのである。
智慧を増すのもよいが
増すと却って色々の複雑な人間関係が出来る。
獲得がよいのか、棄却了がよいのか。
ここに人生の一大矛盾というものを見る。


また我らは何となく一種の無心と名付けていいような世界に対して
憧れをやめる訳にはゆかないものがある。


つまり本能と無心の矛盾と
或は本能の中に存している無心を
この人間のうちの世界へもって来てどの位に働かし得るか
働かなければならぬのかという
その矛盾のところに吾らの精神性格の進みゆく
道があるように思われる。


つまり本能の無心から出て
人間的有心へ出たが
この有心を今一度無心の世界へ
かえしてしまわねばならぬのである。


それで人間的無心ということを言わなければならないが
その無心の中にはどこかにやはり
物質的または一般生物的無心に通ずる道があるように思われる。
それを天地の心といってもよい
この天地の心というものを体得するときに
人間的無心が認得せられるのである。


日に新たにして
また日日に新たなりというような按配に新しい世界を
次から次からと創造してゆくのが天地の心である。


天地の心を表現しないものには
存在ということがないのである。


有心は道徳の世界である
無心になるということ道徳を無視するということにも見える。
そうは見えるが、その実は
有心も無心もなく
道徳も超道徳もないところの世界が一つある。
どうしても、それがないと人間としての矛盾が片付かぬ
したがって安心が出来ぬ。
すなわち今自分の言おうとするところの
無心の世界が体得せらねばならぬのである。
而してこの体認は決して容易の技ではないのだ。


これを仏教の世界では無我の世界と、こう言う。
風や雨の世界は勿論無我の世界であろう。
ただ一般の生物になると「我」の世界をもっておる。
ところが人間になると
一方には風や火の世界と同じものがあり
またその次に猫や犬や虎や狼などと同じ本能的「我」の世界があり
その上にもう一つ人間的有心の世界がある
所謂る道徳の世界がある。
機械の世界、本能の世界、義務の世界、宗教の世界などと
いろいろの世界が重なり合って
ここに人間特有の世界ーーー
矛盾の世界がそこから展開してくるのである。
この矛盾はどうしても「無我」でないと
解決がつかぬのである。


「我」というものを有ちながら
我は、我人は人ということがありながら
そこに人も離れ
我も離れたところの世界を見るということに
しなければならないのである。
そこに始めて無心の体得があるわけである。


始から何もないところに
何かをこしらえ上げたからである。
そういうと
無心はまた極めて容易なことであるとも見られる。


その自分でありながら
ここに神の意のままならしめようというところに
今先に言うような
有我と無我、有心と無心の世界の
交錯がある訳である。


科学者は勿論その手の届く限りに於いて事実を確かめ
理論を組み立てるのであるが
どうも宗教の世界は
科学の研究の範囲外にあるようだ。
範囲外にあるという意味は
科学の頼りにしている自然科学的方法論では
宗教の本体が掴めないという意味である。


無心を体得することを禅宗では見性という。
見性というと何か性というものがあって
それを誰かが見ているように想像せられようが
この見性の体験には
見るものもなく、見られる性もないので
そうしてそこに見性ということがあるのである。


宗教では
飛び込んで見るのである。
浅いか深いか、温かいか冷たいか
自分で体験するのである。
科学は自分が実地にそれを体験しなくても
いろいろな機械をつくったり
いろいろな実験をしたりして
体験の世界のほかに概念の世界をつくりあげる。
このつくりあげられた概念の世界の故に
我ら日常の行事の上に大に便利を得ることは言うまでもない。
しかしこういう便利を得るになれて
そうして体験そのものの世界を忘れるのが
我らの常である。


色空の関係は
差別と平等、多と一、仏と衆生、神と人間
などという関係に連絡をもっている。
いずれも根本には同一問題が潜在する。
詮じつめれば
百不知百不会である、が
この不会底の人が元来不疑なのである。
無心ということが妙なところへ落着した。




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