世 阿 弥 語 録 U




<新井達矢 作>



◆時節感に当たること
(謡い出しのときの選択が観客の期待感に合致すること)

演者はまず楽屋から出て、橋懸りで足をとめて
客席の気配をうかがい
さあ声を出すぞと観客が一致して待ち受けたその刹那に
すかさず第一声を発するようにしなければならない。
これが観客の心の緊張を受けとめて
声を出すということであり
すなわち「時の選択」が
観客の期待感に合致したということである。

早すぎるのも悪いが
遅すぎるのはそれにもまして悪いであろう。
今こそ声を出すぞとひとが心に待ちうけて
内に耳をすませた瞬間をとらえて
声を出さなければならない。
この瞬間に
一に調子、二に気合、三に発声の順序を踏んで
第一声を発するのである。


◆序・破・急のこと
(序・破・急という律動的展開の三段階について−−−
演能にあたっては、まず一日の演目の構成を
考えなければならないが
それにはいくつかの種類の違った演目が
序・破・急という秩序ある変化を見せて
展開するように工夫されなければならない)

というのは
ことばの意味も初めということであるから
一日の初めにふさわしい基本的な作風を見せるものである。
というのは
序の折り目正しい作風をやわらげて
それをわかりやすく解説するような意味を持っている。
というのは
さらにその破の表現を徹底させた極限の表現なのである。
したがって、急の段階では激しい動作をたたみかけて
速度のはやい舞やしぐさで
観客の目を驚かせる効果をつくる。
しばしば「揉む」といい慣わしているのは
この段階における演戯表現のことである。

およそ能は破の段階において
長くたっぷりと見せるべきものである。
破の段階で多彩な技巧を十分に示して
急の部分はどんなことがあっても
ただ一曲だけでなければならない。

大がかりな格式高い演能の場合をはじめとして
酒宴の席やちょっとした謡を聞かせる場合にいたるまで
それぞれの状況に応じて
演能の勧めかたに
序・破・急の正しい配分を行なうことを
心得ておかねばならない。


◆習道を知ること
(芸能の本格的な習得のしかたを知るべきこと)

奥義に達した名人の能をまねしたければ
その名人を師匠として
十分に稽古したうえでまねなければならない。
稽古もしないで
ただ見た目の表現効果だけをまねるべきではない。

いったい名人上手というものは
技術上の稽古を徹底的にきわめつくし
そのうえで天衣無縫の余裕ある芸を見せるから
観客にとって面白いのである。
それをただ見た目の面白さだけで理解して
初心者がいきなり天衣無縫の芸をまねようとすれば
いかにもまねたようには見えても
面白いという感動は生まれない。

名人はすでに年来
身体も表現意図も十分にはたらかせる訓練ができていて
それを突き抜けて
身体を表現意図の七分におさえた余裕のある芸を見せるのである。
しかるに初心者がこれだけの過程を経ずに
七分に現われた芸をそのまま模倣すれば
身体表現だけではなくて表現意図そのものが
七分になってしまう。

師匠というものは自分が現在演じているとおりには
教えないものであって
かつて初心者であったときのように
弟子には身体も表現意図も
せいいっぱいにはたらかせることを教えるのである。

融通無碍の自由さを意識的に模倣しうるわけがない。
(模倣という行為はそれじたい意識的な緊張をともなう行為である)
もし模倣するとすれば意識を超えた自由さではなくて
むしろ、名人が意識的に行なう困難な技術をまねるべきであろう。

「似ていることは似ているが、真実かといえば真実ではない」
という禅宗の箴言がある。

この技術的な困難と融通無碍の自由さとは
二つのことであって二つではない。

「ふさわしい人物にふさわしい伝書を伝えるのでなければ
それは天のにくむところである」
(易経)

そのふさわしい人物になるためには
三つの条件がそろわなければ不十分である。
第一に力量を身につけるだけの天性の素質であり
第二に意欲があってこの道ひと筋に専心する熱情であり
第三にこの道を教えるにたるよき師匠である。

古い演目に新しい演目をまぜてこそ
古いものも新しいものも、ともに珍しく感じられる

「古きをたずねて新しきを知る人こそ師と仰ぐにたる人だ」
(孔子)


◆上手の感を知ること
(上手といわれるひとの内的な演戯感覚を知るべきこと)

謡や舞
その他のしぐさが十分にできていれば
いちおうはそれを上手というのである。
その場合
技術的に達者でなければ不十分なのは論議の余地もないが
しかしそういう達者さとは無関係に
ほんとうの上手というものは別にあるものである。
なぜならば
声もよく舞もその他のしぐさも十分でありながら
なおかつ名人とは呼ばれない演戯者もある。
また逆に
声も悪く、舞や謡がそれほど達者ではなくても
上手としての評判が天下に広がっている者もある。
ということは
舞やその他のしぐさは、演戯者の外的な現われであり
主体としてそれを支配するものは「心」だということである。
いいかえれば
揺るぎなく身についた芸の把握だということである。
だからこそ
面白さの勘どころをわきまえて
内的な感覚によって演じる能は
それほど達者でなくても上手の名人を獲るのである。
したがって
真の上手の名を獲たいと思うのなら
舞やしぐさの技術的な達者さに頼ってはならない。
上手らしさというものは
もっぱら演者の内面に確立した芸の把握によるものであり
天与の才能から生じる恵まれた感覚の現われであろうかと思われる。
この技術的な達者さと内的な芸の把握との
微妙な区別をわきまえることが
上手の要諦である。

演戯者の修業の段階もこのような順序で高まってゆく。
初心から飛躍なしに技術を修めてゆくだけなら
ただよい演戯者だといわれるにすぎない。
それはそれで、いちおう上手に到達する過程の位ではある。
しかしそのうえに面白いと感じさせる境地が備われば
ほんとうに名人といわれる位なのである。
さらにそのうえに
意識を越えた内的感応をつくり出すことができれば
それが天下の名望を獲得する位なのである。


◆浅深のこと
(演戯表現の繊細さとおおらかさについて)

つねに心は繊細にはたらかせ
からだはおおらかに動かすようにすべきである。

大のうちに小はあり
小のうちに大はないといわれるゆえんである。
この点、演者は十分に工夫しなければならない。
そうしておおらかさと繊細さを兼備することになれば
そういう能は広く豊かな能だといえるのであろう。
大寒にできた堅い氷が融けるときには
当然小寒にできた氷も融けるといわれるようなものである。


◆幽玄の境に入ること
(幽玄の境地に入ること)

わが能においては
この幽玄の表現を第一と考えるものである。

ひとえに美しく柔和なありさまが幽玄の本質なのである。
すなわち、ゆったりと上品にかまえた体つきが
能の演戯に表現された人体の幽玄である。
また言葉を優しくして
貴人が日常ならわしとされる言葉づかいをよく研究し
片言隻句にしても口から出せるせりふを優雅にするのが
すなわち詞章における幽玄であろう。
さらにまた謡の場合には
節まわしが流麗にくだってのびやかに渋滞なく聞こえれば
これが謡の幽玄であろう。
舞は稽古が十分に行きとどいて
容姿の風情が美しく
静かな表現のうちに効果が面白ければ
これが舞の幽玄であるにちがいない。

ひとびとの現実の身分はちがっても
かざしている花が美しく見える点では
花はすべて同じであろう。
そうしてこの花にたとえられるのが
演戯によって表現された姿態の品格なのである。

表現された姿態をよく見せるものは「心」である。

要するに
眼に見えるしぐさの数々
耳に聞こえる音曲の数々
一様にその姿が美しいということが、幽玄なのだと心得るがよい。
この道理を自分で十分に工夫して
姿が美しくなるまで個々の技芸を完全にわがものとしきったひとを
幽玄の境地にはいったひとというのである。
個々の技芸に即した姿の美しさを工夫もせず
まして技芸を完全にわがものとすることなしに
ただ幽玄になろうとばかり思っているならば
生涯、幽玄が身につくことはありえないであろう。


◆劫の入る用心のこと
(修練の経験を積むにあたって心すべきこと)