グァテマラ&重松流祭囃子
IN ホテルニューオータニ

2006年12月14日 「誇り高く優雅な国、日本」追加

2006年12月8日(金)



グァテマラの国旗の前で篠笛を吹く




日本の国旗の前で大天狐が舞う




獅子も舞う




大天狐と獅子が
屋台囃子にのって舞う




おかめさんがお化粧をする




にんば




国際交流・国際平和
日本の伝承芸能「重松流祭囃子」
\(^o^)/







『誇り高く優雅な国、日本』
エンリケ・ゴメス・カリージョ

1905年、一人のグアテマラ人ジャーナリストが東京を訪れました。
その名はエンリケ・ゴメス・カリージョ。
彼は日本での経験を
”EL Japon Heroico y Galante”
「誇り高く優雅な国、日本」
に書き記しました。
この書籍は、後にグアテマラの学校の必読書となり
爾後100年にもわたって
グアテマラ人が日本文化を知るための
参考書として使用され続けています。
日本の精神をカリージョ独自の視点から探求する
その生き生きとした語り口は
今もなお色あせることなく輝きを放ち続けています。


◆東 京

座席を立つ男達は、まず地味な色合いの着物を丁寧になでつけて皺をのばす。
それからごく小さな竹製のトランクに手を伸ばすのだが
その前に同席の二人の客にむかってお辞儀をする。
それも四回、五回、六回と何度もする。
これがまた、なんというお辞儀だろう。
手が床に届くほどに身体を折り曲げるのだ。
これこそが
昔から外国人旅行者の目をひいてやまなかった
かの有名な日本人の<お辞儀>である。
微笑みもまた同様で
一つの動作ごとにかならず微笑む。
とりわけ女性はいつも微笑みを浮かべている。
若い娘より老女
さらに老女より少女の方が微笑んでいることが多い。

木の壁に亀のような屋根をのせた家が見える。
ガラスではなく紙を張った窓
むこうの方にはショーウィンドーなどもたない小さな店が見え
商品はすべて、地面の不思議な小箱の中に入れてある。
そして絵はがきで見たとおり
信じがたい均衡を保って同じ姿勢で畳の上に座っている日本人達がいる・・・
あきらかに何もかも
私が心に描いてきたとおりのものである。
が、どこか精彩に欠けている。

一人の娘が駅の玄関に立って、私に笑いかけている。
というより自分自身に微笑みかけているといった方がよいのかもしれない。
ほっそりとした体つきに
血の気の少ない薄く透けるような琥珀色の肌
首筋に浮き出ている細い血管。
顔の形は完璧な卵型。
目は大きくはないが切れ長で
そのはなはだしく細く長い目に肉感的な甘美さがあり
古の日本の歌人達が短歌の中で
女性の瞳を気をそそる媚薬とくらべている気持がわかる気がした。
華奢な手の指は青白く透き通るようだ。
口許はといえば
たえず笑みを浮かべて半開きになっており
そのしっとりと潤った唇から
米粒のような上品な歯並びがのぞいている。
私の眼の前に出現したこの女性は
汽車で一緒だった娘達が着ていた
灰色の無地の着物とは違い
薄い黄色地に白百合を一面に描いた着物を着ていた。
まるでそこだけ春が来たようだった。

そして通りはまさに生活の場である。
人々が道のまんなかで煮たきをし
子供たちが泥んこの中で遊び
鶏が田舎と同じように地面をほじくり返している。
小さな家々は黒い屋根をのせた箱のように見えるが
その箱はどれもかならず何かの店屋であって
そこでは家族全員が店番をしているが誰も買ってはいない。
男たちが大きなずだ袋を積んだ荷台を
汗だくになって引っぱっていく。
こういう色彩や輝きや全体に楽しさに欠ける感じを
私は前もって知っていたはずだった。
しかし現実は思い描いていたものより、もっと完璧でもっと濃密だった。

私が驚いたのは
これら貴族的な娘たちが市中でみかけた少女たちと
まるで異なっていたことである。
同じ種族とはとても思えない。
あの平民の少女たちは小太りで
平べったい顔につり上がった瞼をしていたのに
この娘たちはすらりとした細い身体つきをし
面長で目は青っぽい。
歴史学者はこのタイプの違いを次のように説明したと思う。
つまり三千年前に日本に侵入し定住した二つの種族のうち
ウラル山脈からやって来たアルタイ人は美しく色白で士族階級を形成し
一方
フィリピン海域のマレー人は小柄で肌の色は黄色く
原住民のアイヌ族と混血して平民になった、と。
こうしたもっともらしい説明なしでは
この現象は理解できないだろう。
というのはヨーロッパのように
ある血統が代を重ねることによって次第に
洗練されていったというような問題ではなく
身体つきや顔つき
肌の色という根本的な違いが見られるからである。
華麗な着物
ーー袖の白地には誇らしげに家紋が縫いつけられているーー
に身を包んだこれら若い淑女たちの肌の色は
透きとおるような明るい琥珀色で
それはアンダルシアのスペイン女性よりもほんの少し
褐色がかっている程度であり
黒い血のしみなどまったくない。
一方
町の少女たちの肌は赤銅色で
アメリカインディアンと同じ色である。


◆吉 原

いま私が目にしているこの光景には
危惧していたような悲しそうな様子は微塵もない。
彼女たちは素晴らしい絹の着物に包んだわが身を
喜んで人々の目にさらしているように見える。
その表情豊かな燃え立つような黒い目の中には
彼女らの矜持が見てとれる。
西洋の同類の娘たちが俯いているのと違って
彼女らは堂々と顔を上げている。
彼女らは民衆の女神、生ける小さな女神であり
触れることのできる偶像なのだ。
そして娘たちはそのことを知っており
そう思われていることを喜び
自己の力を楽しんでいる。

大和の花魁は
忌まわしい生業ながら純真である。

人形と遊んでいるような女だけが
愛するにふさわしい女だという。
なぜならば
そういう女は童女の心をもっているからだ。


◆雄々しき魂

武士道とはいかなるものなのか。
われわれは以前から日本の緒戦における勝利がすべて
この武士道のなせるものだと聞かされてきたのでこう問う。
すると、東京の博学の士たちは謎めいた笑みを浮かべながらこう答える
「武士道とは、すべてですよ」と。

日本の諺の一つに
「平和な時には右手に書、左手に武器、戦時には右手に武器、左手に書」
というのがある。
実際、日本では書と武器との結びつきがきわめて強く
この二つはいかなるときにも共にあり
助けあい支えあい触発しあっているように見える。

日本国民の精神的な糧となっている伝説はどれも
現在でもなお人々が戦いや気力を
ふりしぼらなければならないときの励ましとなっている。
八年か十年ほど前にならの大寺院を見た
ラドヤード・キップリング(1865〜1936、イギリスの詩人)は
同行した友人にこう言ったという。
「しかし、この寺を本当にこの猿みたいな小さな人間達がつくったと君は信じるかね」
ピエール・ロティも四十七士の墓の前でこう慨嘆したという
「これは古代の謎のように不可解だね。
この話は、現代の脱落した脆弱な日本人を知る我々にとっては説明不可能だよ」
と。この詩人達はなんという誤解をしたのだろう。
彼らは日本人の微笑みだけを見て
その微笑みの裏にひそむ力強さと
雄々しさとを見てとることができなかった。
ヨーロッパ人は日本人が新しい書物で勉強しているものとばかり思っているが
実際は彼らは昔ながらの英雄物語を読んでいるのだ。


◆太 刀

古代の日本では、鍛治はもっとも高貴な人々とされていた。
ゴンセによれば
「日本刀が当時世界でつくられた剣の中で
もっとも美しいものであったことは論をまたない。
ダマスコやトレドの剣は
日本刀にくらべれば子供の玩具のようなものである」

芸術家で裕福な日本人の家を、諸君が訪ねてみたとしよう。
彼らは、狩野や春信の署名入りの崇高なる書画よりも先に
そして魔術師・笠翁(小川破笠1663〜1747)や
素晴らしい光琳の漆塗りの箱より先に
また友禅(宮崎友禅斎)が刺繍した古い紋付の豪奢な絹物や
マサナオが彫った小さな象牙細工や
古い磁器の逸品よりも何よりも先に
まず伝統のある素晴らしく立派な古刀を
この上ない尊敬の念を込めて諸君に見せてくれるだろう。

刀身を三つに割って調べたところ
芯はきわめて頑丈な鉄の板になっており
幅広い刀身の両側面と刃の部分が
鋼の薄い膜で覆われていることが分った。
両側面の鋼は刃の部分のそれほど強くはないが
これは焼き入れ法によるものである。
刀工は、薄い鉄の表面の三方を鋼の膜で覆い
鉄と鋼の組織を鍛え繋ぎ合わせることで
真正なる一枚の薄い金属版をつくりだすに至ったものと
我々は推測する。
鉄と鋼の強度は完璧に釣り合いがとれており
これはかなり大変な仕事だったはずである。
これを見たヨーロッパの武器作りたちは
このような仕事が人間業でできるとは思えないと述べた。


◆社 寺

日本人は、日光を見たことのない者は
美というものを知らないと確信する。
キップリングやロティのように偏見を抱いてこの地を訪れた者でさえ
「地上でもっとも美しい芸術的な聖域を発見した」と告白せざるをえなかった。
著名なドレッサーは
「これは見事な色彩の驚異であり
アルハンブラにも比肩しうる
というより千倍も優れている」
と記している。
悪い冗談のように聞こえるかも知れないが
それはまったくの真実である。

日本人は、動物たちにかくも恐ろしげな姿をあたえる一方
草木には世界のどこの国にもない魅力をあたえる術を知っていた。
花や草木が彼らにとってなにか神聖なものであるらしいことは当然推測できる。
日光の神官が礼拝の場であげる祝詞には
「大地は、あらゆる生き物に命をさずけた母である」とある。

要するに、人間の言葉をもってしては
ここにある見事な技巧、気品、光、調和、華麗さを
言いあらわすことはとてもできない。
たとえば、ヨーロッパのもっとも立派な建造物も
これに比較したら見すぼらしく見えると言ったところで
それは単なる文章に過ぎない。
現実は感覚的なものであるから、それでは足りないのだ。
現実の強烈さと、それを表現する言葉のおぼつかなさとの間には
なんという落差があることだろう。
ラドヤード・キップリングが唱えた次の言葉が
多分この場合の唯一納得できる言葉であろう。
「これは、神なら造り給うことができたであろうように造られている」
これが、言えることのすべてである。
黄金の天井や漆塗りの塀、象牙の塔、青銅の燈籠など
その色や線、豊かさや優美さで人を魅了するものすべてについては
ただもう、素朴な人々が呆然と立ち尽くしたまま見とれるように
説明や描写やほのめかしなど一切せず
こう繰り返すのがよいだろう
「素晴らしい・・・」と。


◆サムライ

武士の規範には、”まず己に克つこと”とある。
これは各人の中にある卑しく利己的な心と獣性に打ち克ち
渋面を微笑みでおし包むことと理解されている。
古い書物にそう記されている。
「百戦の勝利者と己に克った者とでは、後者の方がずっと偉大である」と。
ダンマパダがそう言っているのだ。
「克己の勝利は、たとえ神であろうともこれを敗北に変えることはできない」
と彼は言う。

地理的な視点からみれば、日本は西洋と東洋の境目にあり
もっとも大きな大洋をおさえている。
それだけでも十分だが、まだまだ沢山ある。
北から南へ連なる列島の鎖は世界中の気候を有し
すべての文化を集め、すべてを凝縮している。
国民の才は全世界的で
はるか昔にインドや中国の文明を吸収したあと
現在では西洋のあらゆる進歩を手中におさめている。


◆洗練された精神

「日本は微笑みとお辞儀の国であり」とロティは言う
「おびただしい数の行儀作法を有し
それをヨーロッパ人が復活祭の時にすら経験することのない熱心さで行なっている」と。
これがまさしく、どんなうかつな旅行者でも
通りに一歩足を踏み込んだ途端に目にするものである。
ましてや民族の魂の中まで入りこみたいと思っている旅行者なら
それがさまざまな形で日本人の生活の隅々にまで
行きわたっていることをはっきりと知ることができる。

聖なる植物である茶の粉を
素晴らしい器へ移すための茶杓の取り方ひとつで
会席者の教養の程度がわかってしまう。
ごく些細なことが侵すべからざる教理にもとずいているのだ。

ハーンによれば
「この掟がある理由はさまざまである。
怒りや悲しみはそれがどんなに大きなものであれ
じかに人に見せるのは無益で時には不作法なものであるという確信が
最下層の農夫の心の中にさえ根をおろしている。
誰か村人が泣いているようなところに出くわすと
彼はあわてて涙を拭い、われわれにこう言うのだ
”非礼をお許し下さい”と。
このような道徳的な理由の他にも
かのギリシャ芸術が痛ましい表情を和らげて
表現したのと同じ美的見地からの理由もある」


◆ハラキリ

われわれは何かというと日本が西洋化したという。
たしかにものによってはーー数はごくわずかではあるがーー
外見が西洋化しているものがある。
しかしその内奥には
きわめて洗練された特殊かつ実に高潔にして雄々しく
はなはだ寛容にして謎深い東洋が存在しつづけている。

日本人の宗教的な感情といえば
それは自然への感情
すなわち生命と詩への感情だけである。
「大地は母であり、偉大なるすべてである。
あらゆる被造物は大地から生命と力を授かった。
樹も人間も花も鳥もすべて同じであり
われわれはみな同じものである」


◆詩 歌

いずれ誰かが訳し是非とも出版すべきは
十世紀半ばに(905年撰)紀貫之が
日本最初の勅撰歌集(古今和歌集)のために記した素晴らしい序文である。
これはまさに日本語による珠玉とされているものであり
古い大和の詩歌の精神をあますところなく述べているだけでなく
世界の永遠の魂のなにものかにも触れている。
「花の間でさえずる鶯や水の中で鳴く蛙の声を聞くと
生きているものの中で歌をうたわないものなどひとつとしてないことがわかる」

ロニスは言う。
「日本の詩歌は、はるか昔から今日にいたるまで
魂の叫びかあるいは観念の反映以外の何物でもない。
詩人がなすべきことは
観念を触発することであり、それを表現することではない。
つまり彼の使命は、ある観念を少ない言葉の中に隠し
それが垣間見えるようにすることである。」
この行間には一種のマラルメ(19世紀末のフランスの象徴主義詩人)的な
理論が見いだせないだろうか。
まさに暗示の理論は似たような原理を出発点としていたのだ。

この国の西洋化について
ヨーロッパ人やアメリカ人がもっている考えほど間違っているものは他にないだろう。
確かに、進取の気に富んだ日本人が
ドイツやフランスあるいはイギリス風の
軍隊や政府、科学、産業を持つだけで満足せず
習慣や衣服、好みや芸術までも変えようとした時代があった。
しかし結果として残ったものといえば
流行遅れの山高帽と色褪せたフロックコートの山
ボナールを真似た何枚かの絵画と
ある種の試験的な文学作品だけである。
それらが八世紀の黄金時代の短歌のように
何世紀も生きつづけるとは思えない。

詩人は昔と変わらず今も
胸が喜びにあふれれば歌い
雲が富士山をとりまくように愛に包まれれば歌い
物憂いため息をついては歌う。
花の香りに酔ったとき
象徴的な桜の木がピンクの雪のような花に覆われるとき
庭の池に蓮の花が開くとき、彼らは歌う。
愛や喜び、美、憂愁、そして英雄的な心を歌い
戦から戻らない侍のこと
嫉妬に死ぬ乙女のこと
杯に満ちる酒のことを歌う。
それ以外のものに対しては
今も昔も相変わらず完全に無関心である。

チェンバレンが「日本の古典詩」の中で
述べている言葉を思い出してほしい。
彼によれば
「ヨーロッパの読者には、このような言葉遊びは
つまらない手なぐさみ的なものに見えるのだが
日本語の原文ではこうしてつくられた詩こそ
味わい深いものであり
読者の目に
そこはかとなく優美で儚く暗示的な一連の絵画を
彷彿とさせるものだということを知るべきである」
というわけで、日本の詩を味わいたいなら日本語で読もうではないか。
とにかく日本語で読むしかない。

ある外人旅行者が感心してこう言った。
「日本では昔の詩人の言葉が
季節の移り変わりごとに繊細なリズムと気のきいたゴンゴリズム(文飾主義)で生き返り
人々の口から口へと飛び交う」
誰もが歌を唱っている。
まさに
この魅力的な国では何もかもが歌っているのである。


◆女 性

結婚をひかえた娘に母親は
良き人妻になるようにと次のようなことを言いきかせる。
一、あなたは結婚したら法律的にも
もうわが家の娘ではないのですから
私たち両親にしたと同じように
婚家の両親に従わなければなりません。
二、結婚後は夫だけがあなたの主人です。
控えめに優しく振る舞いなさい。
夫への絶対的な服従は女の美徳なのです。
三、婚家の両親と兄弟をつねに敬いなさい。
四、嫉妬してはいけません。
嫉妬深くては夫の愛情をえられません。
五、自分に道理があると思っても怒ってはなりません。
耐え忍ぶのです。
異を唱えるのは夫が冷静なときだけにしなさい。
六、おしゃべりや隣人の悪口を慎みなさい。
とりわけ嘘をついてはいけません。
七、朝は早く起き、夜は遅く寝
昼寝をしてはいけません。
酒は慎み、五十を過ぎるまでは
人混みの中に出てはなりません。
八、占い事に惑わされてはなりません。
九、家計と家政に気を配りなさい。
十、新婚とはいえ、若い娘たちと一緒になってはいけません。
十一、派手な化粧をしてはいけません。
十二、実家の両親の富や地位を誇ってはいけません。
またそれを姑や夫の姉妹に見せつけるようなことをしてはいけません。
十三、使用人にはよくしてやりなさい。

「外国の若者たちは結婚の約束や申し込みをする前に
お互いによく知り合うことが許されており
会ったり手紙を交わすことができる。
ところが日本の親たちは、子供を信頼していないので
そのような自由を許さない。
たとえば、東京で誰かがある娘さんを訪問しようとしても
彼女の両親が極端なほどの用心をするから
娘と話を交わすことなど不可能である。
手紙を書くなどはもっての外。
試しに送ってみたらよい。
彼女の両親が受け取って、それでおしまいである。
女性を口説くなどという習慣が我が国に入ることはけっしてないだろう」


◆山 水

日本人にとって自然を愛することは国の宗教のようなものである。
子供たちはごく幼いときから石や植物や虫を愛することを教えられる。
私が、言葉のより正しい意味において
「愛する」と言っていることに注意してほしい。
実際、それは愛であって好意とか愛着というものではない。
日本人が同胞たる植物に向ける愛は
心優しく生気あふれる真実の愛情である。
仏教説話の神髄を滋養としてきた日本人は
木の枝が憂いに沈んだり、野の草が苦しんだり喜んだり
木の葉が声をひそめて内面の想いを語ったり
逞しい木の幹の内側に斧に傷つけられて涙する心が隠されていることを知っている。
こういうことがすべて
幼児の感性を育てるうえで素晴らしい教育となっている。

満開の桜の花がピンクの雪のようになって
枝々を覆う幻想的な季節が過ぎて五月になると
藤の花房が紫色の装飾的な壮麗さの中に儚さをただよわせる。
その後には、
輝くばかりの芍薬の大輪が多彩な素晴らしい絨毯となって野を覆う季節が来る。
初夏になると山にも庭園にも
貴族的な優雅さをたたえた色とりどりのアヤメがほっそりとした姿を見せる。
暑熱の日々には公園の池の面に
仏の花である神秘的な蓮が誇らしげに花開く。
この蓮の花が咲くと古い城の濠が花の道のようになる。
菊の後に咲く梅の花は雪と見まごうばかりの白さである。
そして最後に厳寒の冬、椿が華麗な花を咲かせる。

まず何よりも、自分たちの野山や海川に特別な愛情を感じているのである。
外国の思想や信念、技術は受け入れるが
そのことで民族の性格上の純潔が損なわれるとは考えていない。
彼らにとって許せないことは、いつか、ほんのわずかでも
この神聖な大地が外国人の支配するところとなることである。
憲法にいう
「日本の領土は日本人にのみ所属すべきものである」と。

また、「羽衣」という題の謡曲はこういう。
「天上の楽しみと人々は言うが、天にはこの地上のような美しさが
ないのだから楽しみなどない。
おお、わが大地、天と地が結び交わる聖なる大地。
我がものよ。
いやまして美しきは、森の木々に風が歌いわたる春」

かくして叙事詩人が歌いあげ、国民が讃え
宗教が神聖視しているこの大地は
どこにでもある稲がみのり育つ殺風景な畑地という意味の土地ではなく
物質生活には何の役にも立たないが
国民全体の感覚的実存に欠かすことのできない
花咲く大地なのである。

花を歌うのは何も日本の詩人たちだけではない
と言われるかもしれない。その通りである。
しかし、これほどの熱意と優しさと夥しさで花を歌ったのは日本の詩人だけである。
初めに述べたように、植物に対する同胞愛が愉悦を伴うものに変わる場合も多い。
植物は同胞というだけではなく
有名な仏教説話の中の柳のように、ときには妻ともなる。
ある貴族が、樵の斧に切られようとしていた柳を救ったところ
その夜、柳の精は恩返しにあらわれ
彼と臥床を共にしたという。

日本の庭師は詩人である。
彼は苔むす岩を山奥に見立てて背景とし
樹や滝や絶壁などを本来の景観の中にあるのとそっくりに配置する。
それも、細工師が象牙の小象を彫るような精密さで行なう。


◆貧 困

裕福な商人でも貧しい労働者と同じ食事をしている。
本来の意味での贅沢は存在せず
隣人より不幸だと思っている者は一人もいない。
無能者でないかぎり、誰でも生きるに必要な分は稼ぐ。
そしてこの、生きるに必要な分だけというのが
この国では誰もが望むただひとつのことなのである。

日本人が実際にヨーロッパから模倣した唯一のものは
科学的殺戮法と飢餓の起こし方である。
ベルソール教授は東京でこう記している。
「西欧的な生存のための戦法が
古くから天空にかかる仏教の最後の雲を霧散させていくにつれ
貧困の真っ黒な上げ潮が音もなく寄せてきていることを
東京の外から見る者がいない」


◆名誉の規範

山岡鉄舟は「武士道には宗教的な核がある」と述べ
さらに仏教の教義には人の知っておかなければならない
真の倫理が完璧な形で含まれていると解説している。
それでは人のなさねばならぬこととは何かというと
目上の者に対する忠誠、孝行、仁、正義、礼節、分別、信仰、節度、武勇
名誉、力強さ、純粋さ、慈悲、夫婦愛、謙譲である。
これらの徳目のすべてを全うする者が
本物の武士の正道を歩むのである。


◆笑 い

しかし、誰でも知っているあのおかめの面ほど
日本的な滑稽と笑いを的確にあらわしているものは他にないだろう。
小太りで派手で、目は小さく
何でもよく食べそうな口許をしているおかめの面は
どこにでも見られ、あらゆる日用品についてまわり
民衆のお守りのようになっている。
これに気づいたある敬愛すべき旅行者は
大和の真の主人はアリストファネスだと言い切った。

そして私といえば、東京の生活に慣れ親しむにつれて
異教的な甘美な感動を味わうようになっていた。
日本人の肉体訓練への嗜好と、一般大衆の威厳のある優雅さ
庶民の詩的感覚、英雄譚への国際的熱狂ぶり
そして何にもまして、楽しむ人々の開放的な喜び方
これらすべてが古代ギリシャを彷彿とさせる。
祭りのときの芝居を見るとよい。
それは皆のもので、貧乏人のものであり
農民のものであり、戸もなければ、座席もない。
舞台に車がついている。
村祭りでこれを初めて目にしたとき
ブスケは声を上げてこう言った。
「これはまるで、叫び声を上げ太鼓を打ち鳴らす群衆に先導されて
テスピス(ギリシャの詩人)その人がこっちへやって来るようではないか。
うしろに六十人もの逞しい若者たちが歌いながら曳く車を従えて
あのテスピスが来るようではないか」
その移動舞台の上で、即席の俳優たちが踊ったり
身振りをしたり、寓話を語ったり
滑稽な面をつけて寸劇を演じる。
寸劇は抑制のきいた傍若無人さと
適度の悪ぶりで聖と俗とを笑いとばす。
日本人の日常生活の一部となっているこの透明な笑い
個人の生活のあらゆる場で飛びかう大笑いは
彼らの国民性を示すものであるが
また、人間が極端なほどの丁寧さや儀礼や桁外れの矜持をもつと同時に
底抜けなユーモアをも持てるものだということを示している。






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