世 阿 弥 語 録 V




<1988年1月7日 佐渡島 正法寺>
”世阿弥大夫旧跡記念碑”



◆二曲三体
(歌と舞という二つの基礎技術、ならびに老体・女体・軍体という三種の基本役柄)

「二曲」というのは、舞と歌であり
「三体」というのは、あらゆる人間の形態を三種に大別した
演戯の基本的役柄のことである。

この三曲の基本形に統合できないさまざまな風趣の曲があるが
それはすべて二曲三体の稽古を積み重ねるうちに自然に発現してくる
応用的な能力で演じるものだから
そうした演戯が体験をつうじていつの間にか体得されるまで待つべきである。

演戯の基本役柄の稽古がしっかりしていれば
その応用を演じてもその演者が心中に抱いている
芸術意図が自然に表現となって訴えてくるのである。

最初少年の時に稽古した舞と歌の下地から現われた優美な美しさは
成長した後の三体の稽古の中に生かされ
三体から生まれる応用風は
あらゆる能を生き生きとした舞台にするものであることを知るべきである。


◆無主風のこと
(主体性を持ち得ていない芸風について)

師の教えるままに写し取っている段階までは
まだ無主風といって、主体性を持ち得ていない芸である。

稽古によって師の芸を忠実に写し
また上手の演者の舞台を見て、その長所を取り入れて
それを体で覚えこむことによって、安定感があり
しかも自在に能を創りあげられる達人になり得た者
これが、すなわち芸における「主」なのである。
こうした、主体性を持った演者の能こそ
観客に新鮮な感動をあたえる生きた舞台ということができよう。

生まれながらに持っている芸術的感覚に加えて
稽古して得た自分の力量に応じた芸を
ただ知ったという段階に満足せず
自分自身の芸として身につけた人
そして自己と役とが一体となって演戯できる境地にいたった人
これがいわゆる「有主風」を確立した演者といえるのである。
くれぐれも、この有主と無主の区別をしっかりと認識すべきである。
[為ることが困難なのではない。完全に為ることがむずかしいのだ]


◆闌けたる位のこと
(正統な学習をつくした後に、外形とらわれず
自由自在に演技をおこなえる境地について)

この心・技の両面において最高の境地に達した演者が
時に応じて見せる特殊な演戯は
若い縁者が考えなしに模倣するべきものではない。
初心者はなんと心得てこうした異端な技を模倣するのだあろう。

正統な修業の課程においては
否定してきた邪道な演戯<非風>を
正統な演戯<是風>の中に少しばかり交えて演ずる方法である。

常に善い面ばかりあるために、その善い面も
新鮮な魅力がさがなくなって
観客の目に新たな感動をあたえなくなる場合がある。

つまり「非風」の悪い面が観客にとっては
かえって面白い面、「是風」と感じられる間接的効果が生ずるのである。
これは、上手な演者の卓越した芸術的才能によって
悪い面を善い面に転化させるからである。
だからこそ、非風が面白さを感じさせる芸として
生かされるのである。

初心の人はこの闌けるということを、単に技術の問題と考えて
年功をへた上手な演者のその人間性から生まれる
心の働きであると知らないのであろうか。

「道に従わずに自分の思いのままに行動して
思いどおりの目的を達しようとするのは
木に登って魚を取ろうとするようなもので
まったく不可能である」
(孟子)


◆皮・肉・骨のこと
(外見美、技術の修練のよる美、天稟の素質から生じる精神的な美について)

生まれつき資質に恵まれた上手な演者に自然と備わった
芸術的魅力が舞台に発現したところを
」といったらよかろうか。
二大基礎技術の習練の結果が充実した芸の力となって
三代基本役柄として見た目に現われたところを
」といったらよかろうか。
この才能と習練を発展させて
まことに安定し、しかも優美な姿かたちを
」というべきであろうか。

見た目の美であるであり
音楽性にのっとったうったいかけであるであり
精神的な感動であるにあたると思われる。

声の美しさはであり
曲の面白さを生かす技巧はであり
呼吸法はである。

姿の美は
舞の型の技術は
舞を舞わせる心の充実はに相当する。

ちかごろの演者を見渡した範囲内では
ただ表面に現われた美しさである皮を
部分的に表現できる演者がいるだけである。

もしも、この三つを身につけた演者であっても
さらに認識しなければならないことがある。
生まれつき優れた芸術感覚、つまり骨
多くの技術を習得し身につけた芸、つまり肉
また舞台上の姿の優美さ、つまり皮があっても
それだけでは、皮・肉・骨の三つを持っているというだけで
この三つを真に体得している演者とはまだいえない。
これらを完全に身につけた芸というのは
いわばこうした芸術的な要素をすべきわめて
至高の境地に到達し
その芸は表現する意識から解き放たれて
やすやすと無心に演じながら至妙な感動をあたえ。
そうした芸位になりえた演者の舞台を見るとる
ただ面白いという以外に表現のしようもなく
観客のすべてが意識を超越した感動に巻き込まれ
我を忘れて恍惚となる。

どう見ても弱さのない、しっかりした演戯は
骨的な才能のうえに年功をへた演戯が生みだす感動であり
どう見ても面白さが尽きないことのないのは
技術の習得を積み重ねた肉的な演戯からうける感動であり
どう見ても優雅な美しさのみちあふれているのは
皮的な要素を十分に身につけた芸からうける感動である。

しかし演者としては、ただ主観に従って演じるのではなく
演戯している自分自身の心中に観客と一体化したまなざし<離見の見>を持ち
そこに映る自分の姿を配慮することができたとき
はじめて、その演者は
皮・肉・骨の三つを完全に体得した演技者であるといえるだろう。


◆体・用のこと
(演戯の本質的な構造と、それから生じる現象面について)

能において
演戯の本質的な構造<>と
その現象的な現われ<>について知るべきである。
を花とすれば
は花の匂いのようなものである。
を月とすれば
は月の光にあたる。
ゆえに、体を十分に体得すれば
その現象面である用も自然に、生じてくるはずである。

内面的直感<心>で感ずるものはであり
肉眼によって捉えたものはである。

未熟な人は現象面である用のみを観て模倣しようとする。
これは、用がもともと体から生ずるという理論を認識しないためで
用は本来模倣すべき性質のものではないという道理があるのだ。
能の本質を認識している人は内面的直感によって観るから
現象面にとらわれず演技の根底にある体を理解することが可能なのだ。
演じる際にもこの体をよく見きわめ
自分の演戯に取り入れてゆくうちに
自然と用が現われてくるのである。

体・用と分けていうからには、二種類のものが存在する。
しかし、体が無いところには用が生まれるはずがない。
こうしたわけであるから
用というものは本来それ自体として独立して存在するものではない。

用は体から派生するもので
別個には存在しえないということを心得て
用を稽古の対象として模倣すべき道理はないことを知る。

体を写し取ることが
とりもなおさず用を模倣することに直結すると心得るべきだ。

是非模倣したいのは上手な演者の芸であり
また似せてはいけないのも上手の技である。

似するは、似たるは

しかし現在は、観客の鑑賞眼が高くなって
ほんの少しの欠点をも批評される時代であるから
磨きあげた宝石、または
美しい花束のように優雅な舞台でなければ
芸術的な鑑賞眼の高い観客を満足させることはできない。

そのようなわけで、勝れた演戯者と称賛される人は非常に少ない。
今や能という芸術も次第に世間から見離されて衰頽に向かう状態であるから
ここに述べたような、正統な修業が不十分であれば
能が滅亡してしまうのではないかと憂慮して
自分の芸術理念を大略しるしたのである。
なお、これ以外の教えについては
稽古をうける側の人の才能や力量に応じて
直接に口伝によって伝えるであろう。

相手に言うべくして、相手に言わないときには
その人を失う結果になり
相手に言うべきでないのに、相手にいってしまうときには
その言葉の価値を失う

それだけの器量もない人間に
重要な書物をあたえるのは天の許さぬことである。

非常に高度な芸術家が身につけた演技から発現する芸は
体とか用といった区別はなくなって
あらゆる種類の自在な技がそのまま肉体化し
本格的なうったいかけとなって表現される。

いっさいにわたって「かかり」と呼ばれる芸術的な風趣がある。
これもまた形のないもので指摘することは不可能である。
これもまた本質的な体から自然に生じてきた余情である。
ゆえに「かかり」は体に含まれていたものが用となって発現したものである。
「白鳥が花をふくんだ姿」
こうした情趣が幽玄の姿や風情というべきであろうか。


◆年齢と芸の相応

人間の芸風の成長においても
幼いときにあまり完全無欠なのは
成年になるにつれてかえって悪くなる前兆であるように思われる。
なぜなら、どんな芸の場合にも技芸はそれをする人の身に相応して
はじめて完結した芸とされるからである。
およそ一定の過程をふんで完結した芸こそ完全無欠な芸風なのである。

少年の技芸は心配りもたらず、することも片寄っているものだが
そういう不十分なできばえがそれこそ
幼いときの相応というものである。
やがて年をとり、成人するにしたがって
できる技芸の数も揃い完全な芸風になるのが
おとならしい技芸の相応なのである。

おとなになるにつれてしだいに技芸の種類もふえて行くという風であれば
それが人間の成長と技芸の成長が相応したものというべきであろう。
「梟の子は雛のときは美しいが
盛りが最初にあるためにおとなになるにつれて醜い姿になる」
(詩経)


◆芸の完成への三段階

「苗の中には穂の開かないものがあり
穂を開いても実らないものがある」。
(論語)
このことばは
人間の一生のあいだの芸の稽古の序・破・急を述べたものだと考えるべきである。

ところで苗はどのようにして育てるものであろうか。
ただ田に水をたたえて、自然に育つのを待つだけだといわれている。
ついで苗がしっかり育って田植えということになり
しだいに根づいて来るころに草を取り、水を入れて、雨を待って
ようやく稲の葉の出るころが成長の時期である。
また実る段階になると、すでに色づいてきて
これまでは待ちうけた雨水も不要なものになり
日光を待ち強い陽にさらして
いろいろに世話をするのは十分に実らせようがためである。
われわれの能の稽古もこれと同じであって
幼少のときは苗であるから、舞と歌との二大基礎のうるおいでこれを育て
すでに穂を出す壮年になり最盛期の芸風となっても
なお将来長く持続する安定した芸風を工夫自得し
自分の意識のおよばぬ見物の目にこそ芸のよしあしが問われることを覚悟して
さらに老年になっても
最後まで観客を感動させる効果をいや増しにすることを忘れない稽古こそ
実ることをわきまえたというものであろう。

「法を得ることはやさしいが、法を守ることは難しい」
(仏法の箴言)

この苗の時期、出穂の時期、結実の時期の三段階は
まえにも述べたように
能役者一生の稽古の
序・破・急にあたるものであろう。


◆完成を超えた境地

『般若心経』には
「色即是空」「空即是色」といわれている。
さまざまな芸能の道においても
感覚によって捉えられる有形の存在であるところの「」と
その背後にあって感覚では捉えられない無限定の根柢である「」との
二つの次元が考えられる。
すなわち観客の眼の前にかたちとなって現れた演戯と
それを生み出す眼に見えない演者のなかの緊張との
二層が考えられるのである。

あらゆる演目がすべて演者の心のなかの構想を
そのまま外に表すようになれば
それは「色即是空」の境地だといえるだろう。

やがてこの段階もすぎて
こうした意識外の欠陥についての不安もなくなり
どのように気ままな演出もたくましい安定感を得て
まさに本道にはずれた表現だと見えながら、しかも面白く
批判の尺度を越えた境地があるとすれば
それが「空即是色」の境地だといえるであろう。
欠陥そのものが面白いのだから
欠陥の批評はあるはずがなく
したがって意識を越えた欠陥についての配慮もまた必要ないのである。

「難波津に咲くやこの花冬ごもり いまは春べと咲くやこの花」
ほんとうによい歌の場合には欠陥もじゃまにならない境地があるといわれる。
そのせいであろうか、この歌は「古今集」の序で
和歌の父と定められている。

「駒とめて袖打ちはらふ蔭もなし 佐野のわたりの雪の夕ぐれ」
思えばこの歌は名歌であるから
もちろん面白く聞こえるわけであるが
さてどこにその面白さがあるかというと
具体的には指摘できない。
自分に感じられるところでは
ここにはとりたてて雪景色を愛でたてる意図も見えず
村里を見ようにも遠見のきかない自然のなかで
ほんとうに寄るべきかげのない旅の様子を
すなおに口ずさんだ歌かと思われる。
まったく、名人とはこの人のことだといわれるような人の芸には
この歌のように具体的には指摘できない味わいというものがあるのであろう。

「言語的な表現を絶し、思案を超えて
いっさいの意識のはたらきをのりこえた境地が
すなわち妙である」
(天台宗)

この「駒とめて」の歌のように
まさにわざとらしい技巧はひとつもなく
舞台効果にたいする配慮もなく
ことばで分析できない感動が
演者の意識を越えた観客の眼の中に成立するものであって
その結果、家の名を世上に広く謳われた人こそ
芸能最高の芸風に達した名人というべきである。


◆表現の根柢としての「無」

いわゆる「有」は眼に見える現象として外に現われた演戯の効果であり
あらゆる現象の根柢にあると考えられる根源的な「無」が
この場合、芸能の器に相当すると考えられる。
そうして、あらゆる現象形態を生み出し
眼に見えるものとして現われさせているものは
根源的な「無」である。

「桜木はくだきて見れば花もなし 花こそ春の空に咲きけれ」

本来は「無」である心の内面的なはたらきから
さまざまに多様な演目の舞台効果を生み出す達人こそ
すなわち芸能の器というべきであろう。

いったい、寿命を延ばすめでたい芸能であるところの能の
その芸のかざりともなる花鳥風月の種類はさまざまにある。
ところで、四季折々の時節によって
花葉・雪月・山海・草木その他いっさいの生命あるものやないものを生み出している器は
この自然界である。
そこで、こうした自然の万物を能に趣を添える素材とし
自分の心を自然界の産出力そのものに一致させて
そのことによって案じて大自然にも較べられる芸能の奥義に定着し
そうして能のいわゆる「妙花」−−−
至上至高の境地にはいることを心がけるべきである。


◆九 位

<上三花>

「妙花風の境地」
”新羅の国では深夜に太陽が明るく輝いているのが見える”
もっとも深遠な奥義にたどりついた達人の境地は
これを称賛しようと思っても適当なことばがなく
おもしろいなどといって自覚しうる感動をとび越えた感動の境地にはいっており
演者の意識を超えた表現形象のなかに具体的な興味や評価を超越した
深い感動を呼び起こすものであるが
こうした芸風を「妙花」というべきであろう。

「寵深花風の境地」
”雪が千山を覆っているのに
ひとつ抜きんでた高峰がどうして白くならないのであるか”
高いものは尺度で測ることができる有限な大きさを持っているが
深いものは量的な測定を許さない質的な価値なのである。
そう考えてみると
千山のなかで、ひとつの峰だけがあまりの高さのゆえに
もはや白く見えない深い景色こそ
この寵深花風の境地を象徴するのに適当だといえるであろう。

「閑花風の境地」
”銀製のわんのなかに雪を盛る”
というあのことばがふさわしい。
まっ白な雪を銀色のわんのなかに盛って
それが眼に映る白光清らかなる気品と
いかにも柔和な風情が
すなわち閑花風の境地というべきであろう。

<中三位>

「正花風の境地」
”霞は明るくたなびき、陽は傾いて
見はるかす山々が紅に染まっている”
青天に一点の白日が明るく輝き、見渡す限りの遠望のなかに
無数の山々がひとつずつ鮮明・明晰に見えているような境地が
正花風である。

「広精風の境地」
”山雲海月、自然の森羅万象の心を語りつくす”
自然の森羅万象の本質を語り
眼の前に広がる自然界の広大な光景を残らず語りつくそうとする精神は
多彩な技芸をすべて習得しようとする
広精風の修業に正確に一致する。

「浅文風の境地」
”世間にふつう『道』といわれているものは
万物生成の原理である恒常不変の『道』ではない”
能における恒常不変の「道」である二大基本をまず習熟して
そのうえでさまざまな異風の「道」にもはいって行くべきである。
この浅文風の「浅文」というのは
習道がまだ深い段階にはいらないうちから
すでに基本技術において「文」−−−
すなわち美しさをあらわすものという意味である。
したがって、この浅文風の境地をもって
九段階にわかれた習道過程の最初の入口と考える。

<下三位>

「強細風の境地」
”金槌の影動いて、宝剣の光がさむざむとすさまじい”
金の槌の影が動くのは強くはたらく演戯のさまを表わし
宝剣が寒いような光をはなつようすは冷えさびた芸風を象徴する。
根本的には強い芸風であるが
それと同時にこまやかな演技ぶりにも巧みな境地がこれである。

「強麁風の境地」
”虎は生後三日にして、すでに牛を喰う気概を示す”
虎が生後三日で早くも示すような強い気象をはらんだ芸風だが
その強さはしかし
牛を喰うという表現に暗示されるような粗野なものだという意味である。

「麁鉛風の境地」
”五つの能力を持った木鼠”
木鼠には五つの能力がある。
木に登る能力、水を泳ぐ能力、穴掘りの能力、飛ぶ能力に走る能力であるが
いずれも木鼠の分際にふさわしい程度のもので
ひとつとして優れた能力はない。
身心に力がはいって演戯が柔軟さ・精細さを欠いたこの境地は
すなわち粗野<麁>で鈍重<鉛る>ものだといわねばならない。


◆九位習道の次第

芸能の九段階の品等を習得するについては
まず中級三段階の稽古から始め
次に上級三段階を習熟したうえで
最後に下級三段階を学ぶべきである。

@最初に芸能の道に入って
舞と歌との二大基本をさまざまに稽古している段階が
浅文風にあたる。
Aこれをよくよく学んで
すでに浅い芸風ながらも美しい素質が現われ
しだいに老子のいう創造的な「道」に入って行く過程はもはや
広精風の境地にあたる。
Bこの段階で演目の数を増やし、芸風の幅を広げ
創造的な「道」を進んで十分な成果を収めるようになれば、それが
正花風である。
Cそれまでに習得された技芸を自覚的なはっきりと把握し
さらに自覚を越えた無意識の安定感の境地に根をおろす段階であって、これが
閑花風の境地である。
Dさらにそのうえに
至上至高の幽玄の芸風をなしとげて
「有」がそのまま「無」であるような、自由自在の演技を見せる芸風が
寵深花風である。
Eさらにまたそのうえに
あらゆる批評や説明のことばを絶して
心のなかの構想と演戯の現われとがつねにおのずから一致してしまうような自由な境地

妙花風なのである。
ここまで来て、能の奥義
最高の道は終わりである。

上級三段階の出発点にあたるものは
広精風である。
これは芸能ぜんたいの基盤であり、あらゆる芸術的成果の
幅広い、しかもひとつひとつが精緻な基礎を形成する段階である。
したがって
幅広く、しかも精緻な演戯からさらに進歩するか
あるいは退歩するかの分かれ目がこの広精風なのである。
この段階で、「真の花」(内面的に裏づけられた美)を獲得したものは
次の正花風にのぼり
それを得なかった者は下級三段階にさがるであろう。

F中級三段階から上級三段階を完全に身につけて
そこで意識的な演戯を超えて自由自在の境地にはいった人が
そのうえでわざと下位へ戻って
下級三段階をひとつの遊びとしてたしなむ場合は
その演戯はたんに粗野ではなくて
ひとつのなごやかな芸風を示すことにもなるであろう。

そういうわけで、下級三段階については
三種類のはいり方があることになる。
一、中級から入門して、次に上級
そのうえで下級と進んだ熟達した芸風の場合は
たとえ下級三段階の演技を見せても風情は上級のものと変わらぬ品格を示すであろう。
二、次に中級の広精風にいたってそこから下級に落ちた場合には
ともかくも強細風・強麁風それぞれの分際の効果は見せて
それ以上でも以下でもないであろう。
三、しかしそれ以外にうっかりと下級三段階から入門した演技者は
まったく道にはずれ名のつけようもない芸風を示すのであって
九段階の品等の枠内にも数えられないものとなるであろう。
こういう演技者は下級三段階を目標としながら
その実、当の下級三段階にすら位置しているとはいえない。
まして中級三段階に到達しようなどとは
思いもよらないことなのである。




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