世 阿 弥 語 録 W




<1988年1月7日 佐渡島 正法寺>
”世阿弥大夫腰掛石”



しかし同じ名人が同じ芸風を見せているのに
場合によってなぜか昨日は出てきたのに
今日は出てこない表現効果というものがある。
まったく不思議なことではあるが
風月の趣を借り
めでたい延年の芸能にたずさわるわれわれとしては
たとえ難しいとしてもなんとか工夫をこらして
この重大な疑問を解こうとするのは切実な願いであるだろう。

場合によってできばえに甲乙があるのは
ひょっとすると折りふしの時の雰囲気
すなわち陰気と陽気が表現の気分と調和しないためではなかろうか。

まずその日の雰囲気に自分の感情を没入させ
音声の響きを状況にふさわしい調子に合わせるようにして
一同に感嘆の声をあげさせるのがその場の交感をなしとげる第一歩である。

寒い日は陰の時であり
暖かい日は陽の時だから
音は反対に陰気には陽の音を合わせ
陽気には陰の音を合わせて
音声の調子を配合すべきである。

この陽声の気分を詩句で言い表わすならば
「江月照らして松風吹く、この永夜清宵は何がもたらしたものか」
陰の声の気分を詩句で言い表わすならば
「夜半に烏鶏が雪を帯びて飛ぶ」

天・地・人、三つの要素から生ずる雰囲気を把握しなければならず
邸の庭や屋内で演ずる能は人間の気分だけを主体として
天気(自然の雰囲気)は二義的なものとすることもあるだろう。
要するに、このようにその場の雰囲気に応ずる配慮が
行き届いているかいないかによって
上演に成功・不成功の区別がでてくるのであろうと考える。

外道が仏にたずねていった。
「昨日はどのような法をお説きになりましたか」
釈尊は答えていうには
「昨日は定法を説いた」
外道がまたたずねた。
「今日はどのような法をお説きになりますか」
釈尊が答えて
「今日は不定法を説くことにする」
外道がまたたずねる。
「今日はなぜ不定法をお説きになるのですか」
釈尊が答えていう。
「昨日の定法は今日の不定法なのである」

だいたい花というものは、咲くことによって感興をそそり
散ることによって眼に新鮮でありうるものである。

感興をそそる技芸を老年まで保持した演戯者がいるということは
絶えず変化する飛花落葉の面白さがそのまま常住の象徴として見えるのと同じである。

すなわち花の種類を大きく分けて
性花(本質的で唯一の花)と
用花(現象的で多様な花)の
ふたつを立てるのである。

教養の高いひとは幅広い鑑賞眼をもっているから
性花以外のあらゆる花を嫌うということがあるはずはない。
(したがって、教養人の認める性花のなかには
その現象形態として用花の美がすべて含まれているのである)
演戯者もまたこうでなければならないのであって
九品等の花のいずれも残さないのが広く芸をきわめつくした名人だといえるだろう。

あらゆる現象界の事実はひとつの本質の現われであり
ひとつの本質はつねに現象界の多様な事実としてのみ実在する。

感動の本質はひとつであり
そのなかに上・中・下の区別があるのである。
妙というのは、あらゆる言語表現を超え
意識のはたらきを超絶した心境であって
その心境を眼に見えるかたちに感覚化したものが花であり
さらにそれを意識的に感受したときそれが面白いという状態なのである。

岩戸をお閉じになり、世界が暗黒となって言語のはたらきも超えた状態が「妙」にたと
えられ
それが明るくなっていく状態、すなわち妙が感覚化されてくる状態が「花」にたとえられ
さらにもう一段進んで意識化されてくる状態が「面白い」なのである。

したがって、無心の感が沸き起こる一瞬はただ純粋な歓喜があるのみであり
言語表現を超えて
まさに禅のいう本来の無一物に帰った心境である。

思わず微笑がこみあげてくるのは
(あれやこれの舞台技術が見えるからではなく)
ただひたすら嬉しいからである。

禅宗のことばに「無位真人」というのがあって
客観的な人間の位や価値を超えたところに真の人間性があるといわれている。
また、形なき位ということばもあって
もっぱら客観的な規定による価値を超越することをもって
まことの価値と考えている。
これがすなわち、われわれのいう「安位」の境地にほかならない。

心中に一物もないこの理想の境地も
(一見、矛盾するような話だが)
現実には長年の経験と努力の結果であるほかはない。

とにかく、ひとつの役柄を習得するごとに
演技者は自分自身の分に応じて自由自在の技芸に見えるように演じることが
芸道というものの肝要事であろう。

序・破・急の三段階が整然と展開することが
成就ということにほかならない。
よく心して考えてみると
宇宙のあらゆる現象、是非善悪の諸行為
情あるものも情なきものも
ことごとく序・破・急の発展秩序をそなえている。

有情無情のもの音は
ことごとく詩歌を吟詠しているわけであり
序・破・急の完結がめでたくも感じとられるわけである。
同じように草木がしかるべきときに雨露をあたえられるのも
果実が一定の時期を得て稔るのも
序・破・急の秩序に他ならなず
風の声や水の音にもこの秩序は認められるものである。

また、その演目のひとつひとつの上演のなかにも
それぞれ序・は・急の成就ということがあるはずである。
ひとつの舞、ひとつの謡のなかにおいても
面白いのは序・破・急の展開と完結のゆえである。
さらに、舞のなかの一つの手の動き
ひとつの足踏みの響きにも序・破・急の秩序がある。

面白いと感動するのは
観客の一同の鑑賞行為のなかに序・破・急があるからであり
そのように感動させるひとつの舞台効果は
演戯者が序・破・急の経過によって作り出すのである。
観客が「あっ」といって感動する
そのただ一瞬のうちにも
一定の経過と完結が見られる。

「一に調子、二に気合、三に発声」の原則も
ちなみにいうならば序・破・急の秩序にのっとっているといえる。
すなわち、調子を聞きとりながら満を持している段階が序であり
発声のためここぞという気合をつかむ瞬間が破であり
いよいよじっさいに声を出す段階が急なのである。

長いものも短いものも、大きいものも小さいものも
それなりに秩序をそなえている点では平等なのであり
それぞれに序・破・急を持っているものである。
この道理がよくわかっていれば
自分の芸についての自覚も序・破・急の秩序に従って順調に成立するであろう。
そしてその自覚が成立すれば
自分の芸風のよしあしもおのずから明らかにわかるであろう。

芸術家の精神そのものに序・破・急の秩序が成立し
会得されるにちがいない。
いっさいの演能が面白いのは
序・破・急が完結しているからであり
もし面白くなければ
それは序・破・急が完結していないからだと考えるべきである。
ただ、恐れるのは
こうした序・破・急の秩序感覚をいかにして身につけるかということである。
芸の奥義を精神の底まできわめつくし
無意識・自由自在の演戯ができるようになれば
この精神の秩序もおのずから獲得できるものであろうか。

ものごとの根本が乱れていては末がうまく治まるはずはない。

「根本」を把握した内面的演技に
ほんとうにはいりこんだ場合には
そもそも役に似せようと思う心さえ生じてくるはずはないのである。

なにかをするだけなら難しくはない、よくすることが難しいのだ。

似ていることは似ているが、それが真実かといえば真実でない。

もしほ草かきをく露の玉をみば みがくこと葉の花はつきせじ

素材として古典や伝説になかに典拠のある人物を選び
それを十分に研究消化して自分自身のものとしたうえで
作品の全体を
序・破・急という三つの基本的な律動にしたがって
五段階に構成し、最後に
ふさわしい詞章と曲節をあたえて書きあげるのである。

文学的感動と音楽的感動とが
まさにひとつの音の感動となって集中する瞬間を「開聞」というのである。
仏像を作る場合、それに眼を入れることによって魂を入れる儀式とするものだが
こうした見せ場はあたかも一作の能に眼を入れる勘どころにあたるものであるから
これを開眼と名づけるのである。

開聞は作者の仕事であり
開眼は演戯者の芸によるものだということができるだろう。

今後とても、原作を補修して新作を作るということを
能の創作の原則として守って行くべきである。

ほんとうに幽玄の正統的な芸風で最高位をきわめた者は
時世の好みがどうであっても
その舞台効果には何の変わりもないもののように思われる。

上演がひとつの完結した表現効果を作り上げるためには
それに加わる演戯者たちの協調と協力がなければ
うまくゆくはずがないのである。

一座の指導的な演戯者の身につけた技芸を基本として
その教えに従ってそれぞれの多様な技芸をみせるべきである。

いかなる芸能においても
一座の指導的演戯者になれるのは
その人が上手と天下に許されているからである。

できないはずのことをやりおおせる人のことをいうのであって
演戯者の場合もそれであってこそ道をきわめた演戯者といえるのである。

あくまでもよきにも従い
あしきにも従うということを助演者の心得とすべきである。

笛の奏者は演能に際して
全曲の序・破・急の各段階を一貫して謡の調子の基本を定める重大な役割を担ってい
る。
役者の演戯がまだ始まらないうちに
静かな旋律でその場の雰囲気を定め
導入部の最初の感動を観客に与えるのがその仕事である。
しかしすでに舞と歌とが始まってからは
主役演者の音声を聞き合わせて調子を定め
その謡に彩りを与えるようにすべきである。

そうして舞や歌の隙間のできたところへ本来の調子をひそかに混ぜこんで
観客にはわからないように
全体の調子の統一をはかることが
すなわち能の笛の奏者の本分であろう。




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