<母 性 尊 重>
鈴木大拙全集 第三十一巻より
(昭和三十九年『女性仏教』第九巻第一号)


年をとると婦人の世話になることが多いので
ひとの情が身に沁みて感ぜられる。
日本では、婦人の立場を十分に了解する男性が目立たないやうだ。
母親の苦労を感謝するものも多い。
それはもとより当たり前のことだが
自分の妻の役割を有難がるものは少ない。
殊にそれを公にアプレシェートするものに至っては極めて少ない。
婦人は男よりも自分を犠牲にすることを
寧ろ自分の天賦のやうに心得てゐる。
それで何等の不平もなく、裏の方で、家庭の中で、朝から晩まで
黙々として、自分の仕事に励んでいるのが、婦人の日常である。
細君だけでなく、家庭の女の人は何れとなく
一様に縁の下の力持ちである。
有難いことだと
自分はいつも感謝の心持を忘れないでゐる。


先頃、知人の新たに母親になったのが
その子の三箇月か四箇月ほどになったのをつれて来た。
この子の如何にも無心なのを見て
母親の責任の大なるを痛感せざるを得なかった。
この白紙のやうな赤子の心の上に
善きにつけ悪しきにつけ
影響を及ぼす外境の勢力の、如何に錯綜し
如何に雑多なるかを考へると、ぞっとする。
赤子には既に一定の遺伝的なるものを持ってゐて
外境に対しても、自から本来の反応を持つことであろう。
が、また
その傍にしょっちゅうついてゐる母親の仕打ち次第で
反応を或る程度左右し得るのである。
さうしてこの左右し得るところに
母親の感化の強大さを認めざるを得ない。
これには、ただ母性愛と云ふものだけでは不足だ。
赤子の本性そのものを理解すると同時に
環境に対する歴史的理解、現状的理解をも
十分に具えてゐなくてはならぬ。
既に社会なくして個人が成り立たないことを認得したとすれば
その社会に順応し、その社会の福祉
これからの発展進化の上に
何等かの貢献するやう努めなくてはならない。
これが母親の責任である。
これを思ふと、いま母親の両腕に抱かれてゐる
無心の赤子の行き先に対する自分の関心に
如何に深刻なるものがあるか
おのづから分明であろう。
この深刻さと同時に
母親の上に注がれる感謝の心持の
如何にまた深厚なるかを覚えるのである。


自然は、その所謂る「自然」なので
若き男女を駆り立てて、恋愛の末は
結婚と云ふ関係に入らしめる。
若きものは、これらをすべて「自然」の名で
何等深い考へもなく、それからそれへと
生物学的に社会学的に
業を進めて行くのである。
が、近代人としては、この点について
何かの人生観・世界観を持たなくてはならぬと
自分は感ずるのである。
さうして、この重大な責任が婦人の上に
課せられてあることを顧慮すると
男たるものは、また自分自身の責任の重大さと
婦人に対する心やりとにおいて
大いに考ふべきであろう。
ところが、近代になってから
社会における婦人の位地が大分変動して来た。
それは何かと云ふに、近代の社会では
婦人は単に生物学的職掌を果たすだけでなく
婦人は婦人としてまた一個の人間であると云ふことになった。
それは何かと云へば
或る意味で、婦人は「婦人」でなくなって
男と同様「人間」として
社会に立つこと、社会に出ることになった。
それは、婦人が経済面で独立すること
知的活動で男子を凌駕すること
政治・軍事の上にまで
その体力と心力とを振はんとすることである。
婦人はもはや家庭内の人でなく
社会の表面に進出した人である。
経済や政治面での活動はさほどでないにしても
知的文化面での進出は、目覚しいものである。
昔も文学や芸術面で婦人は活躍した。
しかし、それは第二次的のものであった。
近代では、婦人の活動は
男子のに比して決して「ひけ」をとらぬほどに進出して来た。
これはもう十年前にもなるかと思ふが
フランスの哲学者サルトルの愛弟子の
マダム・シモン・ボーボアルとか云ふ婦人が女性に関する著述をした。
その中に今云ったやうな事象につき
意見を述べてゐたのを記憶してゐる。
面白い研究だ。心ある人々は一読しておいてよい。


それは何れにしても
ゲーテの云ふ「永遠の女性」は永遠の真理であろう。
この「女性」はただの婦人性でなくて
自分はこれを母性にしておきたい。
「母性」につきては
ゲーテのような近代人でなくて
遠い昔の老子時代(二千五百年前頃)、既に云はれてゐた。
老子はこれを
「母に養はるることを貴ぶ」とか
「万物の母」とか
「谷神不死」とか云つてゐる。
「谷神」は女性の神格化である。
男尊女卑のまだまだ盛んであったシナの昔に
既にこの思想のあった事実に注意してみたい。
これは、「母性尊重時代」の遺物だと云ふかも知れぬが
それは、「母性尊重」を何か原始民族時代に
限った特産物のやうに考へてのことであろう。
「母性尊重」は不生不滅の道で
これが確立してゐる時代には
社会も健全な発達をなし
少年犯罪も少なくなるに決まってゐる。
現代の教育者の参考を要する。
何れにしても「婦人尊重」を形式的なものにしないで
その中に含められてゐる真理を
婦人も男子も、ともどもに体取して忘れないこと
これが今日の日本にも大事であろうと
自分は深く信じて疑わぬのである。
これが「大慈大悲の観世音」信仰である、仏教的立場からすると。






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