< 太 鼓 の 名 人 >

ー本町の囃子と鈴木氏のプロフィールー
<所沢市史研究 第十五号>「重松流祭り囃子についてー太鼓の伝承事例ー」より


本町はもとは上町といい、一番組と呼ばれていた。
現在は元町の一部になっている。
鈴木清氏は、明治四十五年六月二十日に本町で生まれた。
父親の清蔵は伊豆下田の出身で、所沢で大工の修業をして
氏が生まれた頃には、所沢飛行場の飛行隊に入所し職工をしていた。
鈴木氏には、祭り囃子との出会いについて次のような記憶がある。


「私の祭りと囃子についての記憶は五歳当時にさかのぼります。
母に連れられてお祭りを見に行った記憶があります。
大通りにはすでに電線が取り付けられて
本町の山車の上層部に飾られる加藤清正の人形が取り付けられず
仕方なく御神酒所(市川屋の前の広土間)にそれが
飾られていたのを覚えています。
髭を生やかしてかっと見開いた眼光は、怖いほど立派なものでした。」


本町の所有する山車は、入間川の彫刻師「甲田了作」の製作によるもので
欅造りの見事な彫刻が施されている。
大正初期までは加藤清正の盛留が山車の上に飾られたものであるが
現在は見ることができない。
山車の製作は墨書銘から明治五年頃と推定され
それから間もなく本町に買いとられたものであろう。
一方、重松流を伝承する囃子連も明治期から
存在していたと考えられるが
その初期の系譜については明らかでない。
大正四年御大典の山車の写真には
数名の囃子連のメンバーが写っている。
鈴木氏は、太鼓の習いはじめについて、次のように語り始めた。


「大正初期の本町の囃子連は、十数人のメンバーがいました。
その中でリーダー格であり師匠であったのが、栗原虎吉でした。
栗原は西木屋という小さな米屋の主人で
小太鼓の<地><カラミ>はもとより
笛も名人級のとても器用な人でした。
私の家は栗原と隣り合わせでしたので
子供の頃からよく可愛がられて
背中におぶさっては練習に連れていかれたものです。
私の太鼓の技術は栗原から受け継いだものです。
栗原は明治三十年代に上新井の中島銀治郎(通称金魚屋の銀さん)から
太鼓と踊りを習い覚えたということです。
銀さんという人は重松の直弟子であり
晩年は仲町で金魚屋をしていました。
『金魚〜』と売り歩く姿を私もおぼろげながら覚えています。
栗原は毎年真冬になると
町内の崖の上に祀られている稲荷様のところで
一人で笛の稽古をしたものです。
その鈴をころがす様な流麗な音色は町内中に響きました。
今でもその音色が耳に残っています。
その当時は娯楽が少なかったですから
私の母なども栗原の笛が聞こえてくるのを楽しみにして
『虎ちゃんの笛はいいなあ』とよく言っていました。
その頃は大野呉服店の裏の本町会館で囃子の練習をしました。
本町会館は町内の寄り合いなどに使っていました。
私が五歳位の時に栗原によくおぶさっては練習に連れていかれました。
練習は大きなお祭りの前や冬場に行ったようです。
太鼓の練習は、会館の十畳位の広間に縄を巻きつけた丸太を
三側位ならべて、それを叩いて覚えていきます。
広間の柱に文字(地言)を書いた紙を貼り付けて
それを見ながら、口づさんで丸太を叩いて覚えていくのです。
太鼓を覚える鉄則ともいえるのが、文句を口づさみながら
笛の旋律を頭に焼きつけて、それをバチ先で表現していく方法なのです。
その様に子供の頃からバチをおもちゃにして
大人にまねて丸太を叩いていたものですから
六〜七歳位には囃子(屋台囃子)以外は
小太鼓もオオカン(大太鼓)もおよそ覚えてしまいました。」


中島銀治郎は氏の回想にもあるとおり
重松の直弟子であり、重松の生前から盛んに重松流を広めた人である。
中島の太鼓の奏法が、栗原虎吉を経て鈴木氏に受け継がれているのである。
本町では、囃子を行うのは、毎年九月十五日の神明社の祭礼と
臨時に行われる山車祭りの際であった。
神明社の例祭では、山車は出さずに表通りに屋台を組んで囃子を行った。
鈴木氏が本格的に小太鼓を習得したのは十五〜十六歳頃であったという。
氏は十六歳〜二十一歳まで
川越の印藤光五郎という大工職に住み込んで働いていたため
その間は囃子に係わっていないが
基本的な技術についてはおよそ十六歳までには習得したという。


「私が若い衆の頃(十五歳〜十六歳)には
よく本町会館の縁側で雨戸を開けて太鼓を練習したものです。
練習は厳しく先輩が来る前に座布団を敷いて座っていたら
後ろから布団を引っぱられて、ひっくりかえった事を覚えています。
他の町内からよく練習に顔を出す人もいました。
寿町の町田自転車屋やその弟子や下新井の方から来た人がいます。
金山町の牧野一郎さんなどもよく遊びにきました。
しかし、他の町内から練習に来る人はあっても
他の町内へ行って叩いたことはありませんでした。
というのも師匠の栗原が、他の町内へ行くと他のバチが混じるというので
他の町内へ行ってはいけないと厳しくいわれていたからです。
その頃の囃子のメンバーは、リーダー格が栗原虎吉で
堀江和一(明治三十七年生)、その弟の清治、榎木太吉
内田春作、市川義助(明治三十一年生)などがいました。
私がその中では一番年少でした。
堀江和一や内田春作などは小太鼓でもカラミが得意でした。
見事なカラミバチを叩いたものです。
内田は寿町へ引越して
重松流祭り囃子保存会の二代目の会長を勤めましたが
もともと本町で修業した人です。
市川は、通称をヨッチャンといい、『太鼓のヨッチャン』で通った人です。
市川は地もカラミも達者な人でした。
バチ数が多く音量で圧倒してしまうような太鼓でした。
後には、よくよその町内へ行って叩いたりもしていましたが
太鼓では決してひけはとらない人でした。
私は市川の太鼓の相手をよくしましたが
随分勉強になりました。」





< 鈴 木 清 語 録 >


歌にたとえれば、笛が曲で太鼓が詩にあたる。
笛にのせてそのメロディーをバチ先でなぞるのだ。
そうなる為にはまず、太鼓の文句を
口づさんで頭に焼きつけておく練習をつまなければならない。


バチの持ち方が太鼓を打つ基本になります。
持ち方を誤って覚えると、なかなか上達せず
後々まで響いてしまいます。
親指と人差し指で、バチの元の方の手頃なところを持ちます。
親指をバチに平行に添えて、人差し指を腹にまきつけます。
そして中指を添えますが、あくまでも中指は添えで
臨機応変につけたり離したりします。
中指の添え加減できれいなバチも出ます。
たとえば、強いバチを打つときは高く振り上げて
バチが太鼓の皮に当たった瞬間に
中指を離すと音がヌケルというわけです。


囃子(屋台囃子)の小太鼓は
初めはそれぞれの部分の基本の地バチを習いますが
カラミは特に習いません。
カラミは習うものではなく、「地の源句」の基本を何遍も叩いているうちに
だんだんと自然にカラミバチになっていくものです。
地の源句」は、囃子の中で最も重要な部分で
それがうまく打てるようになれば太鼓は上達していきます。
習いたては、その源句をぎこちなく打っていますが
だんだんと早打ちができるようになり、小バチが入るようになります。
そのうちに笛に合わせても、合うように間が取れるようになります。
それをさらに叩き込むと、大バチだけで間合いが正確にとれるようになり
振り上げた時のバチさばきもうまくなって
小バチを入れても上手にできるようになります。
そのころからバチ先に変化が現れてきます。
無意識のうちに少しづつカラミバチが入るようになります。
師匠はそんな姿を後ろで見ていて、物になりそうだと一人でほくそえんで
一生懸命やりなさいとはげまして、自分が地を叩いてカラミの相手になってくれます。
三ヶ月間も一生懸命「地の源句」練習すれば、カラミになり始めます。
カラミはこう叩かねばいけないという文句はありません。
地を叩いているうちに出てくるのがカラミですので
そういう意味ではカラミは姿のないものといえましょう。
カラミバチをマスターすると今度は地バチが叩けなくなるのです。
地の句をやってみようと思うのですが
かんぬきがはまってしまったように自由がききません。
まるで右利きの人が左利きになれというのに似ています。
よくヌケるかヌケないかといいますが
カラミバチになって地バチにもどれずにかたまってしまった人がいくらもいます。
それを苦労して地バチにもどると
今度は地とカラミの両方が叩けるようになり
いわば二刀流の免許皆伝ということになります。
この段階になって重松流の囃子については
一通りマスターしたといえましょう。


しかし、この段階にとどまらずに
さらにチラシと称する叩き方がある。
これは、地とカラミをさらにアレンジしていくものだが
それは演奏者の感覚にまかされるものである為に
太鼓の熱錬者が二人揃わないと、できないものである。
最近はほとんど演じられない。
この二刀流を五年から十年続けていると
今度はチラシという段階に入っていきます。
ここからはいわば名人級の技になります。
チラシになると地にしろカラミにしろ、バチ数は少なくなります。
基本の大バチを生かして間を取っていきます。
間の取り方がチラシの真価です。
いわば基本の太鼓をアレンジしていくのですが
これも頭で考えるというよりは、自然と感覚が身についてゆくのです。
またチラシになると
地・カラミと互いに担当を決めずに即興
相手が地で来るかカラミで来るかをよんで
それに合わせた叩き方をする。
リズムを互いにとり合うといいますが、そういうこともできる様になります。
これを「ツバメ返し」と呼んでいますが
これは熟練した人が二人揃わないとできるものではありません。
芸の真髄にふれた人が二人揃ってはじめてできるのですが
ここまで達すれば重松流の奥義を極めたといえるでしょう。
上級クラスになって同じ位の腕前の人と小太鼓を叩いていると
気分の乗った時に、二時間叩いて三分位なものですが
太鼓に酔うというような気分を味わうことがあります。
太鼓に魅了されるというのでしょうか
私も何回かそれがありましたが、その時のことは忘れることができません。
私の先輩方は皆他界していますので
最近はそういう機会もなくなりました。

<笛吹きにも十分通じますね>






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