< 三 木 成 夫 語 録 U >
「胎児の世界」ー人類の生命記憶ー


したがって胎児は、あたかもこの羊水に浮かぶ格好となる。
古海洋学の成果を参照すると
この羊水の組成は古代海水のそれと類似する。
脊椎動物の上陸が”海水をともなって”おこなわれたことの
それはまぎれもない証拠ではないか。
この事実が本書を支える一本の柱となることはいうまでもない。


この羊水は、だから
産み落とされた卵の中にではなく、いまや子宮のなかを満たす。
こうして、ついに母胎のなかにすでに古代の海が宿されることになるのである。
「海をはらむ族(やから)」が哺乳類の別名といわれるゆえんであろう。


”塩”
これこそ”海の精”であり
わたしたち地球に棲む生物の命の最後の綱を象るものではないか。
いつの日にか、宇宙生物たちが一堂に会するとして
地球生物の旗印を求めるとなれば
もはやこれ以外にはありえないといえるほどのものではないか。
地球を代表するかれらはみな
その胸に故郷のシンボルマーク”塩の結晶”をつけて
堂々の行進をおこなうことであろう。
それはまさに地球の「関数」ということができる。
塩はこうして、地球の生命をいまも支えつづける。
かれらにとって、海のみずから塩を取り出すその行為は
だから、最も厳粛なる生の営みということになる。
それは、故郷の川底を目ざして急流をさかのぼるサケの姿を思わせる。
故郷への「生命的な回帰」を象徴する一つの行為ではなかろうか。


人間の胎児も動物の胎児も発生の仕方が
不思議なくらいよく似ているという一点が
つねに心の一隅にあったからだ。
そんなとき、いつもきまって
あの「個体発生は系統発生を繰り返す」という呪文のようなことばが顔を出し
背後からジッとこちらに目を向けていた。


「この極微の世界に億の歳月がこもっているのが見事ですね。
このコントラストが・・・」
そこには、地球の過去に向かって
ひたすら大地を掘り下げつづけてきたもののもつ
溢れるような実感のまなざしがあった。


胎児は、受胎の日から指折り数えて三十日を過ぎてから僅か一週間で
あの一億年を費やした脊椎動物の上陸誌を夢のごとくに再現する。


・・・おれたちの祖先は、見よ!
このとおり鰓をもった魚だったのだ・・・と
胎児は、みずからのからだを張って
そのまぎれもない事実を
人々に訴えようとしているかのようだ。
読者は
どうかこの迫真の無言劇を目をそらさないでご覧になってほしい。


柔らかな羊膜につつまれ
厚い絨毛のベッドに背をもたせ
独特の手の格好をしている。
可愛い”がに股足”のあいだからは、太い臍の緒がうねり
そこから依然として小さなアドバルーンが出ている。
この巨大な大脳半球はどうだ。
ほかのからだの部分とはまるで関係なく
ひとりで大きくなっていく。
逆に、ほっそりとなった顔はすっかり瞼ができて目は完全に閉じ
顔のほうも眠りに入ってしまう。
ここでは何の夢を見ているのか。
このあたりから相貌はしだいに”高僧”の厳しさに向かい
七十日をピークにやっと人間の赤ん坊のおもがげに移っていく。
それは、中生代から新生代の突入するアルプス造山運動の秋霜烈日の夢の再現か。
また、いずれの日にか参入の機を得ることになろう。


胎児の顔貌にただようものーー
それはもぎれもない動物のおもかげであった。
あの軟骨魚類のおもかげが
アッという間に爬虫類のそれに変わり
やがてそれが哺乳類に向かっていく。
ニワトリの発生で見た”まぼろしの上陸劇”そのものであった。
そこでは、この様子がからだの内景で観察されたが
ここでは外景、それも顔という最も身近のものでこれが見られた。


芸術様式の変遷に
アルカイック、クラシック、バロック、ロココ・・・とつづき
最後はグロテスクとなる一連の流れがあるが
この宗族発生の物語にもこれと同じ経過が見られるのであろう。
このなかで「クラシック」とよばれる一時期を必ず経過するが
人々はこのときの様式に何か基準を見出し
つねにこの原点にもどろうとする一つの動向を示す。
宗族発生誌のなかで、さきに述べた種の原形の定まる時期というのが
まさにこのクラシックの時期に相当するのではないかと思われる。
「典型」とよばれるものであるが、こうしたかたちが
時の流れによって歪曲されることなく
脈々として保たれてきたのが
ここにあげた動物たちではないかと思う。


この地球上に生息するどんな動物種にもそれぞれの過去がある。
人類には人類の、類人猿には類人猿の
アメーバにはアメーバの、それぞれ過去が識別される。
どんな宗族にも
その宗族の家計図が大切に保管されているのである。
それは、だから十代や百代で行きどまりになるような短尺ではない。
万から億に及ぶ、展れば地球を何週もするような長巻となろう。
正確には、生物発生の三十億年のかなたにまでさかのぼることのできる
”万世一系”の流れでなければならない。
このことはもちろん、人類もアメーバも同等であろう。


人類の宗族発生は古生代の脊椎動物にまでさかのぼれるが
ここからさきは暗中模索といっていい。
おそらく、数億年を掘り進むうちに脊椎の構造がしだいに消失し
活動的な体制から浮遊性あるいは底着性のそれへと単純化が起こり
ついにはその奥に二十億年に及ぶ微化石の地層がつづくのであろう。
そして、その終着点に
三十億年余といわれる生命発生の原初の地層が位する。


両生類の流れが、書道喩えで「楷書」に相当するものであれば
爬虫類は「行書」であり、鳥類は「草書」といったところか。
まだ系統的には見てはいないが
哺乳類やヒトのそれは
この草書の世界をさらに進めたものになるのではないかと思っている。


さて、このほかの脊椎動物にはすべて肺が発生する。
鰓孔の続きとして鰓腸の壁が風船のように膨らんだものである。
この肺の発生は、あの古生代の終わりの海と陸の間にあって
かれらが思案しつづけたその一億年の形跡として見ることができるが
この新しい呼吸器官は以後、真っ二つに岐れた道をたどる。
その一つは”鰾(うきぶくろ)”に変化をとげる道であり
他の一つは”呼吸肺”に向かって進む道である。
前者は”魚”となって、ふたたび故郷の海へ還っていく一族に
後者は”四つ足”となって古代緑地へ新天地を求めて上陸する一族に
それぞれ見ることができる。


わたしたちは、あの昆虫網を斜めに構えて赤トンボを追う男児のまなざしに
遠い狩猟時代のおもかげを見はしないか。
当時の感覚は、たとえば釣竿を伝わる
獲物の筋肉攣縮のなかにも息づいているはずだ。
わたしたちはまた、初雪の中を生き返ったようにイヌと戯れる幼児の姿に
あの大氷河時代の郷愁をおぼえるのではないか。
その抗し難い魔力は大人までも冬山登山に駆り立てるのだ。
それは、何が目的で?
という現代社会の因果な質問からの無意識の脱出か・・・


夢幻の世界を、しかしもっと生々しく見せてくれるのは
ここで見ている「胎児の世界」ではなかろうか。
古代の海水をはらんだ母のからだの、その受胎一ヶ月のそこでは
これまで蜿艇と述べてきた上陸の形象再現が深く静かにおこなわれる。
その時期の母親のまなざしには
あの「遠」に向かう何ものかが現れるのを見ないではすまされまい。
それはやがて例の”つわり”に移行していくのであるが
母親のからだはこのとき
体内に進行するその激動に必死になって耐えているのであろうか。
ここでは「まぼろしの患い」とこれをよぶ。
このように見てくると、人間のからだに見られるどんな”もの”にも
その日常生活に起こるどんな”こと”にも
すべてこうした過去の”ものごと”が
それぞれのまぼろしの姿で生きつづけていることが明らかとなる。
そしてこれを、まさに
おのれの身をもって再現して見せてくれるのが
われらが「胎児の世界」ではなかろうか。


「いかなる賢人、または偉人といえども
細胞の偉大な霊能の前には無力同然・・・
太陽の前の星のごとく拝危しなければならない・・・
人間の形に統一された細胞の大集団の能力は
その何十兆分の一に当たる一細胞の能力の
そのまた何十兆分の一にも相当しない・・・」
夢野久作は、このような細胞記憶の窓から
まず「胎児」の世界をそのように眺める。


一個の卵細胞が
地球の海を舞台に繰りひろげられた「生物進化」の大河のドラマを
誰の指図も受けず、また誰に教わることもなく
おのれひとりの脚色・演出によって一つの象徴劇に仕立てあげ
しかもそれを卵細胞自身が、からだを張って演じてみせる。
まさに壮絶なパントマイムではないか。
そこでは細胞一個のからだを多細胞にふやしつつ
原腸動物のヒドラのまぼろしを見せる間もなく
やがてその身を
原初の脊椎動物の魚のおもかげに変えていく。
それ以後は、すでにもう図示したとおりであるが
その息つく間もない進行は、どの一つをとっても
まるで神秘の譜に則って流れるように
寸刻の狂いも見ることができないのだ。


「卵細胞はすべてを知っている」
(夢野久作)


”胎児の夢”
それは「苦しきもののみ多かりき・・・」
と、久作は言う。
それは、人類に向かう裸のサルたちの歩みつづけてきた苦難の物語の夢か。
真相は、しかし誰も知らない。
母胎のなかで小さな胎児が何かを思い出したように
突然、足を突っ張り、からだをくねらせ
ときに指のおしゃぶりを始めるともいう。
そんなとき、かれらは、何の夢を見ていたのか・・・
生まれてまだ目もあかない赤ん坊が
眠っているうちに突然におびえて泣き出したり
または何かを思い出したようにニッコリ笑ったりするのを
わたしたちはいつも見ている。
それは、ほかでもない
母の胎内で見残したそのような夢の名残を
実際、見ているのだと久作はいう。


”羊水を満たした、暗黒の空間の中で繰り広げられる胎児の世界”
それは人類永遠の謎として神秘のヴェールのかなたにそっとしまっておく
そんな世界なのかもしれない。
この世には見てはならぬものがある。
近代の生物学は、しかし、この一線をいともやすやすと乗り越える。
自然科学の実証の精神
というより人間のもつ抑え難い好奇心が、その不文律を破ったのだ。
しかし、そこで見たものーーーそれは、かけてだに思わぬ。
そしてことばにも筆にも堪えぬ、ひとつの世界であった。
この「胎児の世界」のなかには
ほとんど想像を絶するほどの歳月が塗り込められていたのである。
それは、時の「遠さ」というものか。
あるいはまた、時のもつ「重み」とでもいうものか。
わたしたちには、ここで
夢野久作の質問「何が胎児をそうさせたのか?」を次のようにいいかえて見よう。
「いったい、その意味は何か・・・」


「植物は、太陽を心臓として、天空と大地を結ぶ循環路の
ちょうど毛細血管の部分に相当する」という。
これは、植物のからだが自然に開放していることを意味する。
葉の表面は腸管と肝臓、肺胞の内面に相当し
根毛の先端は腸管の内面に生えた絨毛に相当する。


「最近、私はこの自然現象にますます深く巻き込まれてゆくのです。
それは私を、原初の領域での仕事のすすめにいざない
遂に其処に留まることを余儀なくさせてしまうのです」
(ゲーテ)


この詩人にとって、葉のこころと花のこころは
植物の生を支える見事な対極であった。
ある一つのものが、ときに「葉」のかたちをとり
ときに「花」の姿となる。
自然の意のままに・・・


ところで人類は、一般の哺乳動物と同じように
”多年生”であることはいうまでもない。
そこでは、だから当然
この交換現象が見られなければならない。
しかし、さきにもふれたように
この特殊な霊長類の世界では
まず性の相が女性の月経という”残り火”に僅かのおもかげをとどめて
ほとんど跡形もなく消滅する。
そして常時発情におちいった
とくに文明諸国の男性の世界では
食と性のけじめが消えるという異常事態が発生する。
個体維持と種族保存の本能が
そこでは”二束の草鞋”をはくように
同時進行のかたちをとることになるのだ。
それは生物進化の道すじに現われた
ある予想もしえない出来事だったのかもしれない。
ゲーテが、その生涯を賭して求めつづけた”人間と動物の違い”を
仮にその生理の面だけでとらえるとすれば
それは、このことを措いてほかにはあるまい。


すべて生物現象には”波”がある。
それは、個々の動きを曲線で表すと
そこには多少にかかわらず波形が描き出されることを意味する。
山があれば谷があり、谷があれば山があり
というように両者はなだらかに移行しながら交替する。
これは、上り坂があれば下り坂があり
また下り坂があれば上り坂がある、といいかえてもよい。
そこには、だから当然、一つの繰り返しがある。
山なら山の形が、少しづつ形を変えながら僅かに異なる周期でもって繰り返される。
ふつう繰り返しというと、同一物のそれが連想されるが
自然界にはそのようなものはない。
どんなに似通ったものにも、両者のあいだには必ず微妙な違い
ニュアンスがなければならない。
あの水面に立つ波模様を見ればいい。


さて、ここでふたたび人間について振返ってみよう。
すでに繰り返しているように
この波はほとんど姿を消したというが
では跡形もなくなってしまったのか。
けっしてそうではない。
わたしたちの祖先は十二〜六歳で元服式をおこなった。
それは性の波から見ると
食から性への位相転換を意味するものではなかったのか。
これはいまも、たとえばアフリカの割礼の儀式のよって象徴的に受け継がれるが
それに寄せる子どもたちの生命的なおののきのなかに
脈々として息づくいのちの波を見るのではないか。
これが、今日の成人式の本来の姿というものであり
もう一方の、性から食への位相転換を示す、万国共通の初夜の儀式と
それは完全な双極をなすものでなければならない。


月夜の大空をいく雁の列に
私たちは一瞬の心のときめきをおぼえるのではなかろうか。
かれらは夜を徹して飛び続けるのか・・・
その行く先は・・・
サケの死を賭した遡行とともに
食から性への移動の姿として
そこにいのちのざわめききを無意識のうちに感じとっているのではなかろうか。
キタキツネの子別れの儀式といい
巨象の群れの墓場への行進といい
レミングの”集団自殺”現象といい
あるいは蟷螂の命をかけた交尾といい
それらすべてこの波のどこかの節目に相当する出来事ではなかろうか。
私たちの心の中に、命の波はまだ脈々として生き続ける。
生命記憶の一つとして・・・
あるいは、それは生命記憶の根源をなすものかもしれない。
これより根の深い生命記憶はほかにはあるまい。


四大リズムには、極小から極大に至る
前者とは比較にならぬほどの膨大な規模が考察された。
そこでは、リズムの語源となった「水波」を中心に
「光波」「電波」「音波」から、日常の昼と夜
春夏秋冬の交替、地殻の変動、氷河期の繰り返しなどがあげられた。
これらすべて、素粒子から宇宙球までの
各種の球体の螺旋運動のよって生じるものであり
自転しながら太陽の周りを公転する地球の螺旋運動が産み出した
日リズムと年リズムがそれらの典型と見なされた。
これらは、いま述べた昼夜をもつ「太陽日」と
四季をもつ「太陽年」をそれぞれもたらすが
ここに月の公転が加わると
二度の干満もつ「太陽日」が、太陽日の明け暮れのなかに
それよりも僅かに長い周期を持って介入し
さらにこれが「朔望月」のリズムをつくりあげる。


こうして生物リズムを代表する食と性の波は
四大リズムを代表する太陽系のもろもろの波に乗って無理なく流れ
そこにはいわゆる生と無生の違いこそあれ
両者は完全に融け合って
一つの大きなハーモニーをかもし出す。
まさに「宇宙交響」の名にふさわしいものであろう。


卵巣とは全体が一個の「生きた惑星」ではないか、ということだ。
いや、この地球に生きるすべての細胞はみな天体ではないのか・・・


地球という特殊な「水惑星」の場において初めて現われた
それは運命的な出来事と思われる。
この原始の生命球は、したがって「母なる地球」から
あたかも餅がちぎられるようにして生まれた
いわば「地球の子ども」ということができる。
この極微の「生きた惑星」は
だから引力だけで繋がる天体の惑星とはおのずから異なる。
それは、「界面」という名の胎盤をとおして母胎すなわち原始の海と生命的に繋がる
まさに「星の胎児」とよばれるにふさわしいものとなるであろう。
この生きた小さな星たちは
こうして「母なる地球」と手を携えて太陽系の軌道に組み込まれ
「兄弟の月」そして「叔父・叔母の惑星たち」と
厳密な周期の下に交流をおこなう一方
「祖母の太陽」を介して、さらに広大な銀河系の一員として
そこに交錯する幾重もの螺旋軌道に乗っかることとなる。
そしてこの銀河系もまた
もうひとつの大きな星雲の渦にとり込まれる・・・
こうして際限なくひろがっていく。
その星雲の果てに
無辺の虚空のなかを宇宙球の最後の渦が
ゆるやかにまわりつづけるのだという。


胎児の発生という一つの生命現象は
単に、いのちの波の最初に出来事としてはすまされない。
それは宇宙的な規模をもつものであることがうかがわれる。
いうなれば、卵細胞が地球の「生きた惑星」として太陽系の軌道に乗った
その門出の姿として見ることができるのではないか。


宇宙空間にただよう胎児の相貌が
スクリーンいっぱいに映し出されたと
多くの若者たちから聞かされる。
これを語る側も、聞く側も
そこには不思議に何の抵抗も感じない。
これまでに述べてきたことは
思えば、「いのちの波は宇宙のリズムの一つである」という
この物語の根拠を生物学的に示すことがすべてであったのだから・・・


こうして、わたしたちの生命記憶は
すでに宇宙空間にまで飛翔をとげることになるのだが
この世界をすべてひと飲みに抱え込む母胎というものは
しかしここから
さらにその奥行きをましていくのではなかろうか。


それは、まず「母」なるものの世界であろう。
ここでいえば、わたしたちの胎児を産み出した母胎の世界だ。
この母なる世界に鋭い肉薄がこころみられる。
それは渾然として、しかも完結した
しかし見ることもなく聞くことも
したがってとらえることもできない
まさに超感覚の「寂寥」の世界であるという。
わたしたちの「天地」を産み出すこの母なる世界は
何ものにも依存せず、独立して存在し
「自ら然るべき」と形容するよりない
ある一つの「物」として冒頭に点出される。


人の世の雌性・母性のデッサンは
ここでもまた万古不易というべく、およそすべての雄性の
それは魂の故郷たるべきもの、となるのではなかろうか。
胎児の世界とは、こうして見ると
それは老子の「道」においても一つのかけがいのない
出発点となるのでなければならない。


”みそか月なし千とせの杉を抱あらし”
(松尾芭蕉)


胎児は十月十日の間
母親のお腹のなかでいったい何を聞いて過ごしてきたのであろうか。
それは、絶え間なく響く母親の血潮のざわめき、潮騒である。
子宮の壁をザーザーと打つ大動脈の搏動音
小川のせせらぎのような大動脈の摩擦音
そしてそれらのかなたに高らかに鳴り響く心臓の鼓動。
それは何か宇宙空間の遠いかなたに消えていくような深い響きだ。
銀河星雲の渦巻きを銅鑼にして悠々と打ち鳴らすような・・・
これが「いのちの波」の象徴なのか。
生の搏動のこれが根源というものか。


人々は「母なる海」という。
わたしたち人類の生命記憶は
この大海原のふところに抱かれた時代のそれが
最も豊かだったのかもしれない。


磯の香る砂浜に腰を下ろして聞く潮騒の音は
だから遠いむかしの生命の「子守唄」ということになる。
いまこうして聞く母の音は、この再現であろう。


「花鳥風月のこころ」という。
それは、人間以外の動植物はもちろん
地水火風の四大にも「こころ」が見られることをいったものであろう。
そこで、いま、この「こころ」を「リズム」に置き換えると
「花鳥風月のリズム」となるが
その意味はもうここでは明らかであろう。
花鳥のリズムは「いのちの波」を
また風月のリズムは「天体の渦流」をそれぞれさす。
前者が小宇宙のリズムであれば
後者は大宇宙のリズムとなる。
そしてこの両者は、たがいに共鳴しあう。
「花鳥風月のこころ」とは、したがって
森羅万象が「こころを一にして」息づく
まさに宇宙交響の姿をいったものであることがうかがわれる。


浜辺に打ち寄せる潮騒の響きは
いつしか意識の表面からは消え失せていた。
ときに高く砕ける音にハッとわれに返るのであるが
それも束の間で
ふたたび意識の表からそれはかき消されていく。
わたくしは黒潮のこころとそこで一体になっていたのだ。
いや、それよりももっともっと大きい母なる海のこころと
完全に融け合っていたのであろう。
いうなれば、人類の生命記憶の故郷に
わたくしのこころは、いっとき里帰りしていたのである。





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