< フ ー ガ 技 法 >



あるひとつの作品が、歴史上有名な巨匠の最後の作品であるとすれば
私たちはそれだけでも興味を覚えずにはいられない。
<フーガ技法>は、バッハの絶筆であり、巨大な未完のトルソである。


バッハは亡くなる前の年の1749年から、この仕事に着手したようである。
ゆったりとした歩みのひとつの主題から
次々に新しいフーガとカノンが繰り広げられてゆく。
主題は転回形でも現われ、リズム的にも音型的にも
変形されてさまざまの姿で登場するが
基本的な輪郭が見失われることはない。


さてバッハは、この主題にもとづいて
次々に18曲のフーガとカノンを作り上げた。
だが19曲目の第239小節で、自筆楽譜はプツリと切れている。
それはちょうど
バッハが自分の姓を音名に読みかえた
BACH(変ロ、イ、ハ、ロ)の4つの音からなるテーマを
副主題として書き込んだばかりのところであった。
あまりに象徴的な出来事ではあるまいか。
私たちは、大樹が地を揺さぶりながら、倒れるのを見る思いがする。
だが、こうした文学的な形式より、むしろ実際の音楽に接するとき
偉大な音楽の営みが音もなく深渕に吸い込まれてゆくのに
卒然とした思いを禁じることができない。
そこから先、いったいバッハは何を作ろうとしていたのか。
明らかなのは、この最後のフーガが4重フーガとして構想され
最後に全曲をつらぬく基本主題が登場する筈であったという
そのことだけで、あとは一切が謎に包まれている。


それ故、バッハの次男カール・フィリップ・エマーヌエルは
自筆楽譜の余白に
”このフーガを作りながら、BACHの姓が
対立主題に取り入れられるところで、作曲者は歿した”
と書き加えた。
しかし、正確に言えば
バッハは目の手術の失敗から完全に視力を失ったために
この複雑なフーガをもはや書き続けることができなかったのである。
それは、1750年の当初のことであった。


<フーガ技法>のような作品を前にするとき
私たちは、バッハがなぜこのような作品を作ったのか
作らずにはいられなかったのかと、問いかけずにはいられない。
1738年、バッハは当時まだ30歳の音楽批評家シャイベから
手ひどい批評を受けていた。
シャイベはこともあろうにバッハの音楽に正面から攻撃を加え
彼の音楽を”重苦しく複雑で、あまりに技巧的でわけのわからぬもの”
と酷評したのである。
シャイベは、ライプツィヒ大学で
啓蒙主義の暁将とされた詩学の教授ゴットシェットに師事したが
師匠から譲り受けた”自然的なもの””理性的なもの”
を武器としてバッハを攻撃した。
ただし、18世紀啓蒙主義の合言葉であったこの”自然的なもの””理性的なもの”とは
音楽的にいえば、じかに心に訴えるもの
判り易いもの、理屈ぬきに楽しめるものを指していた。
バッハの音楽の中に、そうしたものが皆無とは言わないまでも
それを主として求めても無駄である。
バッハにおける芸術とは
こうした意味での啓蒙主義的な音楽観とは
無縁なところに、その基本があった。
<フーガ技法>も
その精神的な根底から理解しなければならない。


”着想””展開””演奏”が一体となったのがバッハの音楽なのだが
作曲という行為に重点を置いて眺めるなら、とりわけ重要なのは
ひとつの着想から、その中にひそむあらゆる可能性を探り出し
ポリフォニックな技術の枠を尽くして”展開”してゆくエラボラーツィオの作業であった。
それは、ひとつの胚種から全有機体が育つに似た
あるいは無限の空間に漂う宇宙塵から全星座が生まれ出るのに似た
宇宙的な相貎を帯びていた。
その中には、時として数学的な秘義も含まれていた。


<フーガ技法>は、こうした意味で、彼の音楽観と能力のすべてをかけ
ライプニッツの時代にふさわしい宇宙的な相貎を帯びた最後の仕事なのである。
<音楽の捧げもの>や
<クリスマスのコラール”高き空より我は来れリ”によるカノンの変奏曲>とともに
この作品はバッハが滅びゆく時代の精神を担って
われわれに残した最大の遺産であった。

(服部幸三)






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