< 佛教から出た日常語 >


安 心(あんしん)
現在には、心落ちつきて、心配なきことをいう。
本来には、「あんじん」と読み
佛法によりて心の平和を得て
また動ずることなきをいう。

安 楽(あんらく)
日常語としては、心安らかに、苦労なきことをいう。
本来には、西方極楽の別名にして
諸々の苦悩なく、安穏快楽なるをいえるものである。

威 儀(いぎ)
もと佛教にて、戒律のことをいい
また戒律にかなえたるたちい振舞をいったが
現今世間では、いかめしいたちいふるまいをいい
また作法にかなった振舞をいう。

意 識(いしき)
佛教では、六識または八識の一であって
意根を所依とし、法境を所縁として起こり
外堺の総ての相を認知する識作用のことであるが
現今では、知、情、意一切の覚めて
活動しているときの精神作用をいう。

一大事(いちだいじ)
現在には、大変の事、大事な事柄をいう。
本来には、人生の究竟の目的をいう言葉である。

因 縁(いんえん)
現在には、由来、来歴、ゆかりの意にて
広く用いられているこの言葉は
本来、佛教の根本原理の一を表したもので
因とは結果を招くべき直接の原因
縁とは因をたすけて結果を生ぜしめる助縁。
この因と縁とによって一切の生滅をとくのが佛教の立場である。

因 果(いんぐわ)
現在では、普通に原因と結果とをいい
また俗に、不幸、不運、悪事の報いをいう。
本来、佛教では、一切の諸法はみな因縁と結果の法則によって
生滅変化するものであると説く。

浮 世(うきよ)
また憂世とも書く。
定めなきうき苦の世の中という意。
佛教にても、一般にても
同様に用いられている。

有頂天(うちょうてん)
本来には、色界の第四天にして
色究竟天ともいい、形ある世界の最高所にある天界のことであるが
俗に「有頂天になる」とは、
得意の絶頂にて夢中となり
この最高の天に昇ったような気持になることをいう。

有 無(うむ)
佛教では、有無の二見とて
有の見解も、無の見解も、いづれも中道を得ずして
かたよれる見解であるとする。
これを世俗の用語として、有とも無ともいわせず
右とも左ともいわせぬことを
有無を言わせずというのである。

会 釈(えしゃく)
本来には、全く相反すると思われる説をも
よく照合して、融曾通釈するの義であるが
転じて、俗には、人に挨拶すること
あいきょうのよいことなどをいうこととなった。
人情を融曾する義から来たのである。

縁 起(えんぎ)
現在では、吉凶の前兆、きざしをいう言葉であるが
本来には、因縁生起の意にして
事物はすべて因縁の理法によって起こるとなす佛教の原理を
説く言葉である。

縁 日(えんにち)
本来には、神佛の降生、成佛、入寂等にあたる日の意にて
この日にその神佛に参詣すれば
功徳を生ずること殊の外あらたかであるとなす。
現在では、その縁日の掛店等のにぎわいをのみいうことが多い。

閻 魔(えんま)
閻魔王の略。地獄の主にして
衆生の罪業を監視し、その応報を明らかにするという。
現在では、恐い顔をした人
むごたらしい心を持った人をもいうことがある。

講 師(こうし)
もと佛教では、法華曾、最勝曾などにて
経の義を講ずる役にある僧をいったが
現今では、講演曾や学校にて講義する者をいう。

覚 悟(かくご)
本来は、迷いの夢さめて、正法を悟り得ることをいうのであるが
転じて、ひろく、物事の道理をさとることをいい
また普通には、予期或いは決心を現す言葉として用いられている。

葛 藤(かっとう)
佛教では、葛や藤が錯綜するがごとく
文字言語のわずらわしきをいう言葉で
禅宗にて古則公案をさしていうことが多く
現在では一般に、解きがたき争いのことをいう。

堪 忍(かんにん)
一般には、堪え忍ぶこと、
或いは怒を忍んで許すことをいうが
本来は、娑婆世界の譯語たる堪忍世界の略にて
この世界の衆生は忍んで悪をなし
これが教化のため
諸菩薩は堪え忍んで苦労をつむという。

機 嫌(きげん)
現在では、一般に、こころもち、きもちの意より
安否、起居をたづねる場合に用いる語であるが
本来佛教にては
人の忌み嫌うことを伺い知ることをいう言葉であった。
議嫌とも書く。

寄 付(きふ)
寺社等に金銭物品を義損すること。
本来は佛教の語であるが
現在では、一般の語として用いられる。

境 界(きょうかい)
普通には、境遇、分限の意に用いるが
本来には佛教にて
因果の理によって各自のうける境遇または地位のことである。

行 儀(ぎょうぎ)
今では、行住坐臥進退の作法
たちいふるまいの意にて、一般の言葉であるが
本来は佛教の語で
道俗すべての遵守すべき行事の儀式をいった。







戻る