< 和 歌 囃 子 >


元禄時代の江戸は、100万人の人口を持つ大都市であったが
妻子を国元へ残した参勤交代の武家や
出稼ぎ小商人や若い職人が多く
男性が女性の倍も住む人口的にアンバランスな都市であった。
自然、遊里が栄え岡場所が増えた。
遊里や岡場所などの花街が栄えると
近郊の農家の若者などにも遊ぶ者が増え
度が過ぎて身を滅ぼす者も出て、社会問題になってきた。

幕府の天領に置かれていた関東の郡代の旗本伊那氏は、支配地を治めるだけでなく
河川の改修や将軍のお供などもする多忙な職種であった。
郡代伊那忠宥は、農家の若者が堕落することを憂い、郡代役人に対策を指示した。
役人は、趣味を持たせることが対策になると考え
京都囃子と同じような江戸独特の囃子をつくることにし
音曲に造詣の深い旗本・ご家人に創作を命じた。
担当者は、里神楽の調子を取り入れ、長唄の節の一部を加え
大太鼓、締太鼓2個、篠笛そして鉦の
5人で演奏する関東独特の明るい歯切れの良い調子を工夫した。
篠笛は当時としては新しい楽器で、横笛の一種である。
篠笛は単一音階であるが、篠笛は長さを変えることにより
一番低い音の一本調子から、最も高い十二本調子まで、半音違いで十二種類をつくり
三味線などの音の高さに合わせることができるようにした。
ばか囃子には、五、または、六本調子が使われる。
最初この囃子は、拍子の撥の打つ数が
和歌の文字数の五七五七七と同じであったことから和歌囃子と呼ばれた。
その後、洒落好きの江戸人が、和歌と馬鹿の語呂が似ていることから
ばか囃子というようになった。
ばか囃子は、放蕩を防ぐ理由でつくられたが
その理由を隠し
享保年間葛西金町村の鎮守香取大明神の神主能勢環が作ったことにし
花街の一つの千住宿に近い葛西地区の各村度に囃子の連中を作らせ、奨励した。
娯楽の少ない当時、郡代の奨励でもあり
競って囃子の練習に励み、多くの連中ができ、鎮守の祭りで演奏された。
その後も伊那郡代は町奉行などに頼み
山王権現、神田明神の天下祭にばか囃子を参加させた。
囃子連中は、喜び勇んで更に技術を磨き
天下祭の山車は、ほとんど葛西囃子の連中が囃子を担当し
その後、江戸のおもな神社の祭りも葛西囃子の連中が頼まれるようになった。
徳川時代は、葛西囃子の連中以外に連中をつくることが禁止されていたが
徳川幕府が崩壊し、明治時代になると葛西囃子連中だけでなく
各地に連中ができた。
葛西囃子、神田囃子、佃囃子などの地名がついているのは
元々は同じ囃子から出たもので
それぞれ葛西囃子連中、神田囃子連中、佃囃子連中という。

楽器は、大太鼓・締太鼓2・篠笛・鉦
曲目は、屋台・昇殿(昇伝)・鎌倉・四丁目・間物
屋台は、威勢が良く切れのよい曲で、初めに演奏される。
昇殿・鎌倉は、里神楽に同じ曲があり、転化したものとされる。
笛中心の静かな曲の鎌倉は、鳳輦や屋台の巡行時に
また、屋台拍子を変化させた賑やかな曲の「投げ合い」は
神輿の渡御時に演奏される。
四丁目・間物は、間物といわれる曲の間に入れる
昇殿、きりん、亀戸、かいでん、羯鼓などの小曲が組み合わせて演奏されていたが
煩雑になることから、四丁目がつくられ、現在は間物は演奏されない。
切囃子は、ばか囃子がつくられた当時は
これらの曲目を単一で繰り返し演奏する江戸囃子であったが
明治の始めに「屋台→昇殿→鎌倉→四丁目→屋台」
の順番で繰り返し演奏する組曲になり
これを切囃子と呼んだ。
現在の葛西囃子や神田囃子では、切囃子が演奏される。

(「江戸の祭り囃子考」八木幸男著)



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